2009年7月19日

真田幸村、徳川家康そして影の死

そう答えて本多正純は使いを城中に派遣した。使いの口上は、
「二の丸三の丸の塀や柵の取り壊しは城方にて行われるべき旨先に誓紙に書きたるところではありますが、我らの諸軍には遠国からのものも多く、取り壊しが終了するまで在陣いたすのも負担が大きく、できれば城方を助けて取り壊しに加わり、早々に片付けたいと考えており申す」
と、もっともなことを言い、寄せ手の総勢を使って三の丸の石垣を壊し、堀を埋め始めた。
 この様子を聞いた織田有楽斎と大野治長は飛び上がるほど驚いた。
「約束が違う!約束が違うではないか。誰か三の丸の堀を埋めるのを止めさせよ」
 二人が顔を真っ赤にして怒り、怒鳴るのを見て奉行の一人が作業現場に急ぎ出向いて、現場の指揮官に大声で言った。
「和議の誓紙によれば、工事は二の丸と三の丸の塀と柵を取り壊すにとどまっておる。堀を埋めるなど誓約に違背しておりますぞ。直ちに止められよ」
 然し寄せ手のものどもは全く手を休めることなく堀を埋め続けている。大坂方の奉行は何度も繰り返して叫んだ。ようやく寄せ手側の奉行たちが来たが、
「和議の条件がどうのこうのと言うても手前どもはそのようなことは全くあずかり存ぜぬ。ただ主人の命によって堀を埋めておるのでござる」
と返事をするのみだった。
 現場での問答に埒が明かぬと気付いた織田有楽斎と大野治長は怒り心頭に発し、急使を本多正純の陣に走らせて問責せしめた。
 ところが本多正純の陣では取次ぎのものが、
「主人本多上野介正純、昨夜より風邪を引き寝込んでおります」
と答えるばかりで全く要領を得ない。
 寄せ手は益々勢いづいて三の丸の堀を埋め、慶長20年正月2日には二の丸の堀、石垣を壊し始め、18日には埋め終えてしまった。そして24日と25日で寄せ手は総引き上げをしてしまった。
 振り返ってみれば大坂冬に陣には大きな合戦などはなかった。大坂方が籠城と決めたからである。城外に高い土塁を築いてその上に大砲を備え付け城内に大量に砲弾を撃ち込んだ。いわば大坂方は何もせず、ただ徳川方に一方的に攻められた感がある。
 しかも和議に追い込んでおいて、その和議条件を守らずに二の丸、三の丸の堀までも埋めてしまった。徳川家康は文字通りの確信犯である。

2009年7月18日

真田幸村、徳川家康そして影の死

さて、翌12月20日、淀君の使いとして常光院、二位の局、饗場の局の3人は城中より茶臼山の陣営に来て、時服三重、緞子30巻を家康に奉呈して和議が整ったことを祝し、織田有楽斎の子、織田武蔵守頼長と大野治長の子、大野信濃守治徳を差し出した。この二人の人質は本多正純にお預けとなった。
12月21日にいたり、双方の誓紙の見届けが行われた。秀頼は木村長門守重成に郡主馬首良列を添えて茶臼山に派遣した。木村重成は家康の誓紙を見て、
「御血判鮮やかならず。秀頼様にはお気になさることはないと存ずれども淀君様は女子なれば…。疑いを生ぜぬためにも今一度御血判を賜りたく」
と家康に言った。
「見ての通り、わしは既に年寄りだで、指に血の気が十分ではにゃぁだよ」
と笑いながら言い、もう一度血判をした。その血判はとても鮮やかなものであったので木村重成は満足し、続いて岡山の将軍秀忠の筆本を見届けた上で受け取り、これらをもって城中に帰った。
 翌22日、今度は家康の使いとして、板倉重昌と阿茶の局を城中に派遣して板倉重昌には秀頼の筆本を、また阿茶の局には淀君の筆本の見届けをさせ、各誓紙を受け取らせた。
 ここに大坂冬の陣の和議が正式に成立した。大御所家康は寄せ手の諸軍を本陣に戻し、大坂城の四つの門の警備を改めて命じた。
 翌12月23日には早くも徳川方の総がかりで大阪城の総構えの取り崩し作業が始まった。そして24日には城内から茶臼山に和平の祝いに来た織田有楽斎と大野治長も含めて祝いが行われた。25日、茶臼山の陣払いをして京の二条城に向かおうとした家康は本多正純を近くに呼んだ。
「正純、良いか、総構えの取り崩しに取り掛かっているが、二の丸三の丸の堀も埋めてしまえ。それも三つ子が自由に上り下り出来るほどに埋めよ」
 これを聞いた正純は、
「和議の条件では二の丸三の丸の堀を埋めることにはなっておりませんが」
と聞きただした。
「構わぬ、埋めよ。これだけ言えばそちにはわしの考えが分かろう」
「分かり申した。次の戦は近うございますな」
「む、それで良い。城中から何か申してこようがの、埋めてしまえばそれまでであろう」
「ならば、早速そのように」

2009年7月17日

真田幸村、徳川家康そして影の死

さて、この和議の誓詞であるが現物が存在しないらしい。和議の条件に違背して二の丸、三の丸まで破壊してしまった徳川方が証拠隠滅を図った可能性もあると筆者は考えている。「大坂城誌」(小野清著)ではいくつかの文書を掲載している。まずは「大坂冬陣日記」だが、帝国大学資料にあった抄本から採っているがそれには起請文前書きと奥書がない。
 とにかく内容を書いておこう。

「大坂冬陣日記」
十二月二十一日 木村長門守郡主馬並有楽修理使者自城中来上野介庄三郎於茶磨(ママ)山二丸鉄砲小屋対面云々
上野介出御前密奉写起請案文召連彼両人赴岡山将軍家亦令書誓紙給之由云々件案分之趣昨日大御所書給同文体也
一、今度籠城諸浪人素已下不可有異議事
一、秀頼御知行如前々不可有相違事
一、母儀在江戸之儀不可有之事
一、大坂開城有之者雖何国望次第可替進事
一、対秀頼御身上不可有表裏事
本多佐渡守同上野介京極若狭守在将軍御前彼二人即御目見将軍家以牛王寶印裏写誓詞加判給長門守主馬持帰城中右筆松雲也
二十二日 阿茶局板倉内膳入城中秀頼並母儀共被出起請文母儀筆本者阿茶局見給内膳見秀頼筆本而二人及晩帰参其誓詞之趣
一、秀頼対両御所自今已後不可有謀反野心事
一、雖有種々中説直伺御意可申付事
一、諸事可為如前々事

「摂戦実録」
二十四日 御和睦の誓紙取替さるに付大御所御印形検使として木村長門守重成年二十一歳並郡主馬首二の丸水の手門を出天王寺口より茶臼山の御陣に来る
御誓紙之案文如何様なるや具に知る人なし但し村越伝記には左の如し
   敬白起請文之事
一、今度互に確執に及び令対陣候といへ共双方取曖に依て令和睦者也自今以後御子孫に至る迄毛頭疎意不可有事
一、年来の所領並家人召抱る輩壱人も不残前々之如く無相違令満足候事
一、大坂の城に在住子孫長久之事
一、母儀安穏一生可令送事
右之条々皆々可相守者歟但此度興業之趣城外側を埋み要害を破り畢若此趣一事に而も於令違乱は正八幡宮を始奉り本朝神明仏陀之冥罰可罷蒙者也仍而起請状如件

慶長十九年甲寅十二月二十四日               秀頼
御判
 家康

2009年7月16日

真田幸村、徳川家康そして影の死

家康は本多正純と阿茶の局を大坂城内の京極若狭守忠高の陣に向かわせ、忠高の母、常光院を城内から呼び出し、家康の和議の内意を伝えた。
 常光院は亡き浅野長政の娘で淀君の姉に当たる人物である。常光院は本多正純及び阿茶の局との面会前に淀君から、
「良いか、秀頼殿のお命が助けられるならば和議に応じたい、と申せ」
と言われていた。
 家康はこれに対し次の様な返事をした。
「秀頼をば、もとよりわが子の如く思うに、悪き者どもの言を誠として我を仇とせらる故にやむことを得ずして軍に及ぶ。今にても秀頼の心は替わる事あるまじ。秀頼の事をば太閤の我に打ち任せ給う。其の上、将軍家と婿舅の好身なれば疎意あるべき事なし。今よりも後も兵を止めて無事成上は親みの替わる事有るべき哉」(武徳大成記)
 常光院がこの家康の言葉を伝えると淀君はとても喜んだ。そして、
「何事も大御所の仰せに任せ奉ると申せ」
と言った。
 12月20日、家康は常光院に阿茶の局を沿えて城内に向かわせ、淀君へ伝えたのは、
「秀頼大坂に猶も住居せられば旧領の地を授くべし。天下の要津を去りて他の郡を願うならば大国を数ヶ所封ずべし。招集る浪人どもをも禁制すべからず、心に任せらるべし」
と言う言葉であった。
 淀君は主だった武将を大広間に集めて評定を行った。評定の席では浪人たちは口々に籠城を続け時を待つべしとの意見であったが織田有楽斎や大野治長を始めとした大物は和議を喜び、
「秀頼もとのごとく大坂に在りて家臣共皆旧地を領し、浪人共制禁し給わずは永く和親有るべしと有りければ大御所聞こし召して請うところの条々皆願いの如くすべし。今既に和親し永く干戈を止める上は我士卒に命じて惣掘を埋め、所々の要害を壊して人々の疑いなき様にせらるべし」(意味は簡単ゆえ現代語訳はしなかった)
と言った。そこで淀君は大いに喜んで、もろもろの思慮をせずに、
「諸事仰せに従い奉るべし。秀頼の誓詞を献ずべし」
と、大御所家康に返答をしてしまった。
和議の条件は、
一つ、この戦の起こるに当たって城兵が今宮、天王寺、仙波、天満などに新設した述べ三里に及ぶ総構えを関東方の人数で取り除くこと
一つ、城中(大坂方)の人数をもって三の丸、二の丸の塀と柵を取り払うこと
一つ、人質として、織田有楽斎と大野治長の子を差し出すこと
一つ、城中諸浪人一統の罪を許すこと
一つ、これ以後、家康、秀忠と秀頼は互いに疎意あるまじきこと
一つ、以上に付き誓詞を取り交わすこと
となった。そしてこの日12月19日に双方の矢砲を停止した。

2009年7月15日

真田幸村、徳川家康そして影の死

 家康は渡邊備後を呼ぶと、石見銀山の鉱夫を使って城累に向かって掘り進めと命じた。12月16日には、中井正次が家康の元に馳せ参じ、フランキー砲の架台の製作が終わったと報告した。
 フランキー砲とは南蛮から輸入した青銅製の大砲である。当時のポルトガル人を指す「フランキー」という言葉をその大砲に使っていた。漢字では「仏郎機」と書く。
 架台ができたと聞いた家康の行動は早かった。直ぐに松平正綱を派遣し、将軍秀忠の岡山の本陣から、井上正継、稲富重次、牧野正成などの砲術練達の士を選抜し、南の天王寺口と北の備前島の菅沼正定の攻め口などから大砲を撃ちかけさせた。目標は大坂城の矢倉や塀であった。
玉造の攻め口からは大坂城内の千畳敷を狙って大砲を撃ちはなった。この砲弾は、淀君の屋形の三の間に飛び込んだ。女中たちが朝の茶を飲んでいたところへ、すぐ傍の茶箪笥に命中した。そして菅沼定芳の攻め口からは何と大砲百門を一斉に撃ち放った。
 これらの砲撃に大坂城内は大混乱に陥った。従来の合戦でこれほど大量の大砲が使われたことはなかったのである。織田信長が長篠の合戦で三千の鉄砲を三段撃ちに発射し、鉄砲の時代を作ったのと同様の戦の革命の一つである。
 ただ大砲を打ち込まれているだけでは士気にかかわると、夜になり、城内の大野治房、塙団右衛門、長岡監物らは本町橋より打って出た。そして寄せ手の蜂須賀阿波守の陣を襲った。そこでの死闘により双方とも有力な家臣を失っている。
 12月18日、京橋口の片桐且元の攻め口から田付兵庫助景隆が撃ち放った「大仏郎機」の砲弾は、ちょうど天主の二重にいた淀君の直ぐ脇の柱に命中して、その柱を砕いた。その柱に打たれた女中二人は潰されて死んでしまった。さしもの強気の淀君もこれには半狂乱となった。そして「はよう和議を、はよう和議を」と叫び続けた。
 さてこの砲弾を撃った大仏郎機、即ち「大フランキー砲」とは当時世界最新鋭の大砲であったカルバリン砲のことである。
 大坂城内の大混乱の様子は直接築山の上から城内を監視している各部隊から続々と家康の元に寄せられていた。カルバリン砲の砲弾が天主に命中したのも見ていたものから注進が入った。
…そろそろ和議に応じるときが来たか。天主にまで被弾して右往左往している淀君が見えるようじゃ。追い詰められすぎて必至になられる前に和議をちらつかせ、更に戦意を喪失させるのが得策じゃ…
 戦に次ぐ戦の戦国の世を生き抜いてきた家康の戦に於ける心理戦への知識経験は群を抜いていた。自ら敵と直接戦ったことのない秀頼や女の淀君など相手ではなかった。大坂方にとっては加藤清正などの戦国大名を毒殺されてしまったのが痛かった。だが、大坂城に駆けつける大名が全くいなかったことが豊臣秀頼に対する大名たちの評価を表していた。

2009年7月14日

真田幸村、徳川家康そして影の死

「良し、でかしたぞ」
と、家康は褒めて返した。そして藤堂高虎に向かって言った。
「堀の水がなくなるのを見てさぞや城内の兵どもは肝を冷やすことであろう。ここは戦意を奪うためにも、休息を取らさぬためにも更に肝を冷やさなければならぬ。良いか、今夜より戌、子、寅の刻には城の近くで鬨の声を上げさせよ。そしてその間の、亥、丑、卯の刻には大砲を撃て。さすれば夜の眠りは取れぬも同然、兵の気力も体力もなくなってこようぞ」
 12月10日、大御所家康の命に従い、大坂城の南の寄せ手は外堀にあと20間、30間という近さにまで接近し、土俵を積み上げて山を作り上げた。作業中も竹束を隙間なく立てていたので城内から打ちかけられた鉄砲にも殆ど負傷者は出なかった。
 玉造では、泥が深いところなので板やスノコを敷いて作業をした。夜になり、城内からは徳川軍の鬨の声と大砲による脅しに対抗するかのごとく鉄砲が発射された。
 12月11日になり、大御所家康は間宮直元、島田直時、日向政成を召しだして但馬の石見銀山の鉱夫を使って大坂城の矢倉や石垣を掘り崩せと命じた。直ちに間宮直元らは巡視を実施し、城の南に掘り入るべき場所を見つけた。そこに鉱夫数百人を集め、早速掘り始めさせた。
 12月12日には織田有楽斎と大野治長から再度後藤光次に和議についての書状が届いた。中には、和議について秀頼を諌めると書かれていた。つまり秀頼は和議に反対だったようである。
 12月13日、浅野但馬守と松平忠義は家康の命により、盲船を使って仙波に船橋を架けさせた。また堀を埋めるための土俵の用意を本多正純に命じ、大工中井正次に梯熊手を作らせた。総攻撃の用意に取り掛かったのだ。12月14日には、大坂城の南側に造成中だった築山が完成し、その上に大砲の据付をした。他にも諸軍は外堀近くにまで進出し、柵を作り所々に楼を造った。それらは城内を眼下に見下ろすほどの高さがあったのでそこから城内に打ちかける大砲や鉄砲の威力はすさまじかった。逆に城内の将兵の立場から見れば、外堀の外側に出来た高所から丸見え状態で撃ち降ろされて、その状況は悲惨だった。
 相当に弱気になった織田有楽斎と大野治長から12月15日に、またまた和議申し入れの使者が本多正純と後藤光継の元に送られてきた。
 大御所家康はこの和議の使者も無視した。もう一段弱気にさせてから有利な条件で和議を結ぼうと考えていたのである。とにかく日一日と経過するにつれて大坂方の士気はなえていくのだった。何しろ城の周りには敵兵が海の様に広がっており、それが城の矢倉をもしのぐような人工の山を築き、しかもその上に大砲をすえつけて撃ち下ろしてくるのだ。この戦の様子は、「ガリア戦記」に出てくるローマ軍の戦いをも髣髴とさせるものである。

2009年7月13日

真田幸村、徳川家康そして影の死

いずれにせよ徳川方は城に肉薄した。それに伴って将軍秀忠は平野から岡山へと陣を移したし、12月6日には大御所家康が住吉から茶臼山へと陣を進めた。
その様子を見て城内の兵たちの士気が下がり始めたので、真田幸村や後藤基次らは豊臣秀頼に進言を行った。
「敵方の将軍秀忠と大御所家康は時折全部隊を回り、諸軍を励ましております。是によって大いにその士気が上がっている様にございます。ついては秀頼様にも城内各所を巡察なされ、声をおかけくださればと存じます。敵方が城に迫り、総攻撃の時も遠からずと存じますれば」
 なるほど、と思った秀頼は翌12月7日、城内の巡視を行った。前の夜に酒肴と共に酒を諸軍に振舞ってあったところに、2-3万の軍勢に前後左右を取り囲まれた秀頼が太閤秀吉の金瓢箪の馬印や華麗な飾りを押し立てて巡検を行ったので城内の者どもの意気はすこぶる上がった。
 一緒に城内を回った淀君は三の丸、二の丸をめぐった後、天主にのぼり大坂城の四方を眺めた。その目に映った光景は、たった今城内を巡検して5万―6万騎のきらびやかな自軍を見て自信を深めてきたのを一瞬で突き崩すものだった。
 徳川方の寄せ手は幾百万騎にも見えた。武将の旗は何千となく風になびいている。山も川もなく見渡す限り敵が満ち満ちている。
…これは行かん、こんなに多くの兵に囲まれては勝つことなど全くおぼつかない…
 淀君は「和議しかない」と瞬間的に悟った。そして、直ぐに供奉してきていた織田有楽斎と大野治長に向かっていった。
「わらわは織田信長の姪にて浅井長政が娘なり。戦に臨み討ち死にすることなどは覚悟の前なれども、この大軍では秀頼の運が開けるとは到底思えぬ。これは関東の申し出に応じて和議を進めるしかないぞ、有楽」
 翌12月8日、織田有楽斎は家臣の村田喜蔵、大野治長は家臣の米村権右衛門を使いとして書状を持たせて本多正純と後藤庄三郎光次の元に派遣した。
 12月9日、大御所家康は大坂方からの和議の申し入れを無視して、茶臼山の陣に藤堂高虎を呼び、大坂城総攻撃に関する軍議を開いた。
 ちょうどその時、山城忠久、滝川忠政が注進に馳せ参じた。
「いかが致した」
との家康の声に、
「本日、長柄堤が完成いたし、淀川の流れは中津川を抜けて海に流れ出ますれば、日ならずして天満河の水は枯れ上がる筈でございます」
と報告した。