「日本では普通で、向こうではブレミアね。ちょっと工夫が必要だな。稚内のそばの原野の中の小屋に色々準備しておかなきゃいけないね」
「それはそうと、依頼人には連絡した」
「お断りの件でしょ。スリークッションおいた提携先からね、お探しの人がグッドイヤーと言う補聴器メーカーで働いているのを見たことがあるけど最近急に姿が見えなくなった、と情報を入れておいたわ。いくら馬鹿でも自分のところから情報が漏れたって分かるでしょう。それにもう見つからないかもしれない、と依頼の件はできないと言うニュアンスを伝えたはずよ」
「それからの動きはあるのか」
「何にも言って来なくなったから諦めたんじゃないかな」
「それでいい。諦めれば、それがコズロフスキー側に分かるだろうからな」
「じゃぁ上で食事にする、それとも何処かに食べに行く」
「何処かに出かけたいところだけれど、そしたら何も話せないぞ」
「そうねぇ、ターニャの話を聞きたいからやっぱり上にしよう」
「オーケー、俺は瞬間移動装置で部屋に戻るから千代は表から訪ねてきてくれ」
「移動装置のほうが楽なんだけどな」
「それを言わない。それともここで食事にするか」
「だめだめ。私が表から行くわ。でも少し準備しておいて」
「了解」
伊達の部屋は23階、千代の部屋はその直下の22階である。一度改造してメゾネットタイプにしたものを上下別々に買うために再度改造を加えて分離したことになっているが、実はそのときの改造でいろいろな工夫がされている。画家の千代の部屋の中には絵の倉庫があり、その裏の隠し部屋にコンピューター設備がある。写真家の伊達の部屋には写真の現像部屋がありその机の下から壁の中を階下の千代のコンピュータールームに移動できる抜け道が作ってある。こんな仕掛けがあるがそれを頼っていてはいつかは誰かに知られてしまう。二人はわざとフロントの前を通ることを心がけていた。
千代はリフトでグランドフロアーに降りるとシーブリーズに併設されているスーパーマーケットに入っていった。デパートの地下食料品売り場をさらに綺麗にしたようなマーケットで千代は牛肉、豆腐、春菊、長ネギ、白滝などを買い求め、大きな緑のエコバッグに入れてフロントの前まで戻ってきた。その時、
「小泉様、暫くお出かけでしたか」
と声がかかった。フロントの女性だ。
2009年12月30日水曜日
オホーツクの鯱
天王洲シーブリーズ22階
16畳ほどの大きさの部屋の中には一方の壁側に長い机がありワイドスクリーンのディスプレイが二台、普通の17インチのスクリーンが一台のっている。上を見るとそこにもワイドスクリーンが二台見下ろすように取り付けられている。反対側の壁には畳み一畳以上あるかと思われる巨大な液晶スクリーンがはめ込まれている。中央の黒レザー張りの回転椅子には伊達と千代が座っている。
「ほら見て、これがコルサコフの東のアニワ岬の丘でオホーツク海からの風を利用しようとしている風車よ。運転開始式典についてはセルゲェの情報どおりだわ」
「地形は分かるかな」
「ええ、上の画面を見て。そのコンターで分かるでしょ」
「ああ、海岸段丘の上に設置したと言うことだな。海岸から段丘崖で20メートルほど上がっている」
「超低空で接近すれば段丘上に上昇するときまで式典参加者には見えないと言うことね」
「そうだ。だがそれは、こっちにも相手が何処にいるかの特定がそれまでできないと言うことだ」
「つまり上昇して相手が見えるようになってからコズロフスキーを確認してそれからってことでしょ」
「こちらに確認のための時間が必要だってことは、それだけの時間相手にも見られていると言うことだ。その間怪しまれないようにしなければならない」
「全く怪しまれないって言うのは無理でしょ。上昇すればレーダーに映るし、そうすれば不審機が侵入したってすぐに気がつくでしょう」
「軍のレーダーに気づかれても、緊急発進するには5-10分かかる。一番の問題はターゲットが気づいて隠れることだ」
「ターゲットは州知事、目立ちたいんじゃないかしら報道陣には」
「今は選挙で選ばれるんだからマスコミには好意的だろう」
「よし!ヘリを報道ヘリに見せていけば、写真に撮られようと目立つポーズをしてくれるんじゃないかしら」
「それはいいアイディアだ。ロシアで名の通ったメディアの名前でも書いていくか」
「ノーボスチサハリンなんかどう」
「ノーボスチサハリンは自分のヘリを飛ばしている可能性があるぞ」
「そうね。それじゃぁブレミアはどう。テレビニュースの代名詞にもなっているからいいんじゃない。それに、サハリンのローカルニュースなど取材に来るわけはないし」
「そりゃぁいいぞ。それにしよう。デザインを調べておいてくれるか」
16畳ほどの大きさの部屋の中には一方の壁側に長い机がありワイドスクリーンのディスプレイが二台、普通の17インチのスクリーンが一台のっている。上を見るとそこにもワイドスクリーンが二台見下ろすように取り付けられている。反対側の壁には畳み一畳以上あるかと思われる巨大な液晶スクリーンがはめ込まれている。中央の黒レザー張りの回転椅子には伊達と千代が座っている。
「ほら見て、これがコルサコフの東のアニワ岬の丘でオホーツク海からの風を利用しようとしている風車よ。運転開始式典についてはセルゲェの情報どおりだわ」
「地形は分かるかな」
「ええ、上の画面を見て。そのコンターで分かるでしょ」
「ああ、海岸段丘の上に設置したと言うことだな。海岸から段丘崖で20メートルほど上がっている」
「超低空で接近すれば段丘上に上昇するときまで式典参加者には見えないと言うことね」
「そうだ。だがそれは、こっちにも相手が何処にいるかの特定がそれまでできないと言うことだ」
「つまり上昇して相手が見えるようになってからコズロフスキーを確認してそれからってことでしょ」
「こちらに確認のための時間が必要だってことは、それだけの時間相手にも見られていると言うことだ。その間怪しまれないようにしなければならない」
「全く怪しまれないって言うのは無理でしょ。上昇すればレーダーに映るし、そうすれば不審機が侵入したってすぐに気がつくでしょう」
「軍のレーダーに気づかれても、緊急発進するには5-10分かかる。一番の問題はターゲットが気づいて隠れることだ」
「ターゲットは州知事、目立ちたいんじゃないかしら報道陣には」
「今は選挙で選ばれるんだからマスコミには好意的だろう」
「よし!ヘリを報道ヘリに見せていけば、写真に撮られようと目立つポーズをしてくれるんじゃないかしら」
「それはいいアイディアだ。ロシアで名の通ったメディアの名前でも書いていくか」
「ノーボスチサハリンなんかどう」
「ノーボスチサハリンは自分のヘリを飛ばしている可能性があるぞ」
「そうね。それじゃぁブレミアはどう。テレビニュースの代名詞にもなっているからいいんじゃない。それに、サハリンのローカルニュースなど取材に来るわけはないし」
「そりゃぁいいぞ。それにしよう。デザインを調べておいてくれるか」
2009年12月29日火曜日
オホーツクの鯱
翌朝は車でオホーツク海沿岸を走り回った。伊達は各所で車を止めては写真を撮る。写真家の伊達が取材旅行に出て写真を撮らずに帰るのは不自然なのだ。
車の中の会話は写真家のものではなかった。セルゲェから手渡された土産をようやく開けた。ウォトカ一本といくらの缶詰が丸い筒に入っている。ウォトカの瓶を引き抜いた。瓶の周りに封筒が張り付いている。
「セルゲェの本当の土産はこれのはずだ。旅館などであけて誰かに見られては困るからこうやって誰もいない原野にやってきたんだ。さて中身は何か」
封を切って中身を取り出して広げた。伊達の目が驚きと優しさに満ちた。
「アーニャ」
伊達の口から吐息のような声が漏れた。
「どれ、良く見せて。これが貴方の娘なの。似ているわよ、可愛いでしょ」
アーニャの写真を見た千代がちょっとからかい気味に言った。
「で彼女の写真はないの、ターニャの」
「ある、これだよ。昔はもっとスリムだったんだが少し太ったんだ」
「あら、そうなの、どれどれ。分かるわ、貴方の好みが出ている。ただの美人は余りお好みじゃないのよね。何かひきつける個性が欲しいのよね」
「そんなことはもう良いじゃないか」
「そうね、過去の彼女の事を根掘り葉掘り聞くのはマナーに反することだものね。他には何かないの」
「国境警備隊の極東地区の会議の予定が書いてあるぞこれには…、この日程はコルサコフの風力発電設備の運転開始式と重なっている。つまりこの日はセルゲェはサハリンにいないということだ」
「やるならその日だと言っているのね。でも信じて大丈夫」
「信じる。あいつもかなりのリスクをとって俺を脱出させたんだ。コルサコフの話はサハリンの陸上に入るなと言うことを言っているんだよ。海上レーダーの角度調節についての話もあいつが俺にやり方を暗示しているとしか思えない。はっきり言えないのは盗聴が怖いからだ」
「じゃぁ、その方向で実行の準備をしよう。とりあえずこの海岸で利用できる場所や小屋などを調べておきましょう」
じっくり調査をした二人は阿寒湖の旅館にもう一泊したあと、
「とっても良い記念日になったね」
との声を残して風が冷たくなった北海道を南下しさらに千歳空港まで走らせて乗り捨てた。そしてJRで札幌に移動し、そこからはJRの夜行列車「北斗星」で上野に向かった。飛行機やフェリーを避けたのは偽名とはいえ名前が記録に残る交通手段だからであった。念には念を入れ、追跡を遮断する方策を採っていたのだ。
さらに、東京駅から東海道線で横浜に行き、今度は東急東横線で渋谷に帰り、山手線で品川に抜け、バスで天王洲に戻ると言う複雑な経路をとった。
車の中の会話は写真家のものではなかった。セルゲェから手渡された土産をようやく開けた。ウォトカ一本といくらの缶詰が丸い筒に入っている。ウォトカの瓶を引き抜いた。瓶の周りに封筒が張り付いている。
「セルゲェの本当の土産はこれのはずだ。旅館などであけて誰かに見られては困るからこうやって誰もいない原野にやってきたんだ。さて中身は何か」
封を切って中身を取り出して広げた。伊達の目が驚きと優しさに満ちた。
「アーニャ」
伊達の口から吐息のような声が漏れた。
「どれ、良く見せて。これが貴方の娘なの。似ているわよ、可愛いでしょ」
アーニャの写真を見た千代がちょっとからかい気味に言った。
「で彼女の写真はないの、ターニャの」
「ある、これだよ。昔はもっとスリムだったんだが少し太ったんだ」
「あら、そうなの、どれどれ。分かるわ、貴方の好みが出ている。ただの美人は余りお好みじゃないのよね。何かひきつける個性が欲しいのよね」
「そんなことはもう良いじゃないか」
「そうね、過去の彼女の事を根掘り葉掘り聞くのはマナーに反することだものね。他には何かないの」
「国境警備隊の極東地区の会議の予定が書いてあるぞこれには…、この日程はコルサコフの風力発電設備の運転開始式と重なっている。つまりこの日はセルゲェはサハリンにいないということだ」
「やるならその日だと言っているのね。でも信じて大丈夫」
「信じる。あいつもかなりのリスクをとって俺を脱出させたんだ。コルサコフの話はサハリンの陸上に入るなと言うことを言っているんだよ。海上レーダーの角度調節についての話もあいつが俺にやり方を暗示しているとしか思えない。はっきり言えないのは盗聴が怖いからだ」
「じゃぁ、その方向で実行の準備をしよう。とりあえずこの海岸で利用できる場所や小屋などを調べておきましょう」
じっくり調査をした二人は阿寒湖の旅館にもう一泊したあと、
「とっても良い記念日になったね」
との声を残して風が冷たくなった北海道を南下しさらに千歳空港まで走らせて乗り捨てた。そしてJRで札幌に移動し、そこからはJRの夜行列車「北斗星」で上野に向かった。飛行機やフェリーを避けたのは偽名とはいえ名前が記録に残る交通手段だからであった。念には念を入れ、追跡を遮断する方策を採っていたのだ。
さらに、東京駅から東海道線で横浜に行き、今度は東急東横線で渋谷に帰り、山手線で品川に抜け、バスで天王洲に戻ると言う複雑な経路をとった。
2009年12月28日月曜日
オホーツクの鯱
やっと取れた休暇で北海道に来たカップルに見える会話を仲居は確かに聞いていた。
「何か記念日などですか」
「ええ、ちょっとしたね。恥ずかしくていえないけど」
こういう受け答えを千代は得意である。藍色の半纏を着たカウンターの男性従業員に向かって千代は、
「予約しておいたカタクラですけどチェックインをお願いします」
と言い、
「素敵な半纏ですね。このデザインはアイヌのものでしょうか」
と付け足した。
従業員はコンピューターの画面で予約を確認しながら、
「ええ、そうです片倉様、二泊のご予定でございましたね」
「ええ、そう。景色の良い、温泉の付いたお部屋ってお願いしたはずですけど」
「はい、そのように承っております。ちょっと紅葉のピークは過ぎましたが、まだ十分お楽しみいただけるのではないかと存じます。お食事の時間は何時にいたしましょうか」
「そうね、せっかくだからお風呂に入って落ち着いたところで、7時半でお願いできますか」
「かしこまりました」
従業員は部屋の鍵を持って差し出すと、
「407号室にご案内願いまーす」
と仲居に呼びかけた。
案内された部屋は広かった。部屋の向こうにガラス窓からは阿寒湖が一望できた。生憎陽が落ちたあとなのでそれは楽しめなかったが、両脇を低い柴垣で目隠しにした小さな露天風呂が部屋についていた。
二人は露天風呂に入りながら今までの経過を確認していた。
「ホルムスクの式典に知事が参加しなかったのは我々の動きが、たとえ具体的でないにしろ漏れたとしか考えられない。国家保安局が動き始めたことでもそれは確かだ」
「急に不参加になったのは私も掴んだ。だからそれから上手く脱出できるかが心配だった。でもロシア側で捕まえたと言う会話が何処からも傍受できていないのが分かったから何か逃げる手段が出来たのだろうと北海道に来て車などを手配しながらサインが来るのを待っていたの。そしたらユージノサハリンスクとコルサコフの間からシグナルが発信された。それで稚内に来ると分かった。車の中でちょっと聞いたけど貴方の子供がサハリンにいたなんて、勿論貴方の昔の恋人にも会ったなんて、ちょっと、いや相当に妬けるな」
「それよりも依頼主に苦情を言うことと、この仕事は断ると知らせることをやらなくちゃね」
「仕事は続けるんでしょ」
「俺を狙って追いかけてきたんだから、これは金の問題ではなくやり遂げなければならないな。よし、後は明日車の中で話そう。」
風呂から上がって夕食、そして熱い抱擁と続き長い、長い一日が終わった。
「何か記念日などですか」
「ええ、ちょっとしたね。恥ずかしくていえないけど」
こういう受け答えを千代は得意である。藍色の半纏を着たカウンターの男性従業員に向かって千代は、
「予約しておいたカタクラですけどチェックインをお願いします」
と言い、
「素敵な半纏ですね。このデザインはアイヌのものでしょうか」
と付け足した。
従業員はコンピューターの画面で予約を確認しながら、
「ええ、そうです片倉様、二泊のご予定でございましたね」
「ええ、そう。景色の良い、温泉の付いたお部屋ってお願いしたはずですけど」
「はい、そのように承っております。ちょっと紅葉のピークは過ぎましたが、まだ十分お楽しみいただけるのではないかと存じます。お食事の時間は何時にいたしましょうか」
「そうね、せっかくだからお風呂に入って落ち着いたところで、7時半でお願いできますか」
「かしこまりました」
従業員は部屋の鍵を持って差し出すと、
「407号室にご案内願いまーす」
と仲居に呼びかけた。
案内された部屋は広かった。部屋の向こうにガラス窓からは阿寒湖が一望できた。生憎陽が落ちたあとなのでそれは楽しめなかったが、両脇を低い柴垣で目隠しにした小さな露天風呂が部屋についていた。
二人は露天風呂に入りながら今までの経過を確認していた。
「ホルムスクの式典に知事が参加しなかったのは我々の動きが、たとえ具体的でないにしろ漏れたとしか考えられない。国家保安局が動き始めたことでもそれは確かだ」
「急に不参加になったのは私も掴んだ。だからそれから上手く脱出できるかが心配だった。でもロシア側で捕まえたと言う会話が何処からも傍受できていないのが分かったから何か逃げる手段が出来たのだろうと北海道に来て車などを手配しながらサインが来るのを待っていたの。そしたらユージノサハリンスクとコルサコフの間からシグナルが発信された。それで稚内に来ると分かった。車の中でちょっと聞いたけど貴方の子供がサハリンにいたなんて、勿論貴方の昔の恋人にも会ったなんて、ちょっと、いや相当に妬けるな」
「それよりも依頼主に苦情を言うことと、この仕事は断ると知らせることをやらなくちゃね」
「仕事は続けるんでしょ」
「俺を狙って追いかけてきたんだから、これは金の問題ではなくやり遂げなければならないな。よし、後は明日車の中で話そう。」
風呂から上がって夕食、そして熱い抱擁と続き長い、長い一日が終わった。
2009年12月27日日曜日
オホーツクの鯱
「じゃぁ」
「おお、それじゃ皆によろしく」
伊達は「皆」に力をこめていった。そして船の中に入った。余り馴れ馴れしくすることはセルゲェを危うくすることなのである。
予定時刻に定期船は出港した。波風が強く船は前後左右に揺れた。伊達は携帯電話を取り出すと番号を押した。090-03311965。呼び出し音に続いて、
「ハロー」
と言う懐かしい声が聞こえた。
「今定期船に乗った」
「オーケー、空港脇の出口のワゴン」
それだけの会話で電話は切れた。伊達は一瞬口許に笑いを見せたがすぐさま引き締まった顔に戻った。そして外を見て驚いた。定期船から数百メートルの距離をロシア国境警備隊のボートが併走していたのである。しかしそれも三海里と言うロシアの領海を出る頃見えなくなった。
稚内港に下りた伊達は入国審査を済ませると直ぐにタクシーに乗った。
「空港までやってくれ」
「へい、お客さん。やけに荷物が少ないだね。サハリンから帰ったにしては」
「ああ、重いものは送ったからね。今年も寒くなってきたね」
「そうなんだわ。冬になる前から春が待ち遠しく感じるだね」
空港までは直ぐだった。伊達は空港の建物に入り、トイレに立ち寄り、つけているものがいるか確かめた。そして今度は空港の横のドアから外に出た。目の前に赤い日産パトロールが駐車している。真っ直ぐその車に向かい助手席に乗り込んだ。
「お帰り」
の声がして今までシートを倒して寝ていた女が起き、代わりに伊達がシートを倒して視界から消えた。赤い日産パトロールは勢いよく走り出した。そしてオホーツク海に沿うように東に走り、さらに南下して太陽がすっかり暮れてから阿寒国立公園内の和風旅館に入った。
旅館の広い玄関には着物姿の中居たちが並んでいた。赤い絨毯が敷き詰められたオープンスペースがその奥に広がっている。その先にはどうやら池があるらしく周りに竹垣が見える。
「ようこそお越しくださいました」
こぼれる様な作り笑いで仲居の一人が近づき、バッグを受け取ると直ぐ左手のカウンターに案内した。
「素晴らしい宿ですねぇ」
と伊達はいかにも驚いた風に言った。
「そうよ、びっくりさせようと思って言わなかったけどいいところでしょ。たまの旅行だから奮発したの」
「おお、それじゃ皆によろしく」
伊達は「皆」に力をこめていった。そして船の中に入った。余り馴れ馴れしくすることはセルゲェを危うくすることなのである。
予定時刻に定期船は出港した。波風が強く船は前後左右に揺れた。伊達は携帯電話を取り出すと番号を押した。090-03311965。呼び出し音に続いて、
「ハロー」
と言う懐かしい声が聞こえた。
「今定期船に乗った」
「オーケー、空港脇の出口のワゴン」
それだけの会話で電話は切れた。伊達は一瞬口許に笑いを見せたがすぐさま引き締まった顔に戻った。そして外を見て驚いた。定期船から数百メートルの距離をロシア国境警備隊のボートが併走していたのである。しかしそれも三海里と言うロシアの領海を出る頃見えなくなった。
稚内港に下りた伊達は入国審査を済ませると直ぐにタクシーに乗った。
「空港までやってくれ」
「へい、お客さん。やけに荷物が少ないだね。サハリンから帰ったにしては」
「ああ、重いものは送ったからね。今年も寒くなってきたね」
「そうなんだわ。冬になる前から春が待ち遠しく感じるだね」
空港までは直ぐだった。伊達は空港の建物に入り、トイレに立ち寄り、つけているものがいるか確かめた。そして今度は空港の横のドアから外に出た。目の前に赤い日産パトロールが駐車している。真っ直ぐその車に向かい助手席に乗り込んだ。
「お帰り」
の声がして今までシートを倒して寝ていた女が起き、代わりに伊達がシートを倒して視界から消えた。赤い日産パトロールは勢いよく走り出した。そしてオホーツク海に沿うように東に走り、さらに南下して太陽がすっかり暮れてから阿寒国立公園内の和風旅館に入った。
旅館の広い玄関には着物姿の中居たちが並んでいた。赤い絨毯が敷き詰められたオープンスペースがその奥に広がっている。その先にはどうやら池があるらしく周りに竹垣が見える。
「ようこそお越しくださいました」
こぼれる様な作り笑いで仲居の一人が近づき、バッグを受け取ると直ぐ左手のカウンターに案内した。
「素晴らしい宿ですねぇ」
と伊達はいかにも驚いた風に言った。
「そうよ、びっくりさせようと思って言わなかったけどいいところでしょ。たまの旅行だから奮発したの」
2009年12月26日土曜日
オホーツクの鯱
コルサコフ港
コルサコフ港の稚内行き定期船の乗り場の前に突如国境警備隊の車列が、しかも機銃付きの装甲車まで伴って侵入してきたのには皆が驚いた。乗り場の前に駐車していた一般の車は大慌てで車を移動させた。
車から銃を持った警備隊の兵士が数人飛び出してきて周囲の警戒に立った。その異様な雰囲気に乗り場に居合わせた人は皆脇に寄り、正面には誰一人いなくなった。セルゲェと伊達は切符売り場に来ると稚内行きのチケットを一枚購入した。そして直ぐに出入国係官のデスクに近づいた。大様に椅子に座っていた係官は飛び上がって直立不動の姿勢をとった。何と目の前に近づいてきたのが出入国管理も所管している国境警備隊の隊長だったからである。
「この方が出国される。至急手続きをせよ」
セルゲェの一言に係官は、
「ダー」
と一言答えると、伊達のパスポートを取り、中身もろくに見ずに出国印を押すと、
「カタクラ さん、よい旅をどうぞ」
といってパスポートを返した。
「じゃぁ」
と伊達が握手を求めると、
「船まで送るよ」
と言って係官の脇をすり抜けて中に入った。国境警備隊でなければ出来ないことだった。
「伊達」
小さな声でセルゲェが声をかけた。振り向く伊達に向かって、
「これが今の俺に出来る最大限のことだ。無事に戻ってくれ。それからこれは土産だ。後でゆっくり見てくれ」
「有難う。あんなことをして大丈夫だったのか。あとで何もなければよいが」
「大丈夫だよ。俺は上層部に信用があるんだ。それよりお前カメラマンだったな。もしコズロフスキー知事の写真を撮るなら来月26日にコルサコフの脇のアニワ岬の丘の上の風力発電用の風車の回転開始の式典があるぞ。その季節は低気圧の墓場を言われているオホーツクの海は何時も荒れている。レーダーの角度を上げて海面の反射を避けるほどだ。だけど諦めたほうがいい。お前は丘には入らないほうが良い。今度は俺が取り締まる立場になるからな」
「そうか残念だな。せっかくの機会なのに。彼が海外に出たときに撮ることにしよう」
コルサコフ港の稚内行き定期船の乗り場の前に突如国境警備隊の車列が、しかも機銃付きの装甲車まで伴って侵入してきたのには皆が驚いた。乗り場の前に駐車していた一般の車は大慌てで車を移動させた。
車から銃を持った警備隊の兵士が数人飛び出してきて周囲の警戒に立った。その異様な雰囲気に乗り場に居合わせた人は皆脇に寄り、正面には誰一人いなくなった。セルゲェと伊達は切符売り場に来ると稚内行きのチケットを一枚購入した。そして直ぐに出入国係官のデスクに近づいた。大様に椅子に座っていた係官は飛び上がって直立不動の姿勢をとった。何と目の前に近づいてきたのが出入国管理も所管している国境警備隊の隊長だったからである。
「この方が出国される。至急手続きをせよ」
セルゲェの一言に係官は、
「ダー」
と一言答えると、伊達のパスポートを取り、中身もろくに見ずに出国印を押すと、
「カタクラ さん、よい旅をどうぞ」
といってパスポートを返した。
「じゃぁ」
と伊達が握手を求めると、
「船まで送るよ」
と言って係官の脇をすり抜けて中に入った。国境警備隊でなければ出来ないことだった。
「伊達」
小さな声でセルゲェが声をかけた。振り向く伊達に向かって、
「これが今の俺に出来る最大限のことだ。無事に戻ってくれ。それからこれは土産だ。後でゆっくり見てくれ」
「有難う。あんなことをして大丈夫だったのか。あとで何もなければよいが」
「大丈夫だよ。俺は上層部に信用があるんだ。それよりお前カメラマンだったな。もしコズロフスキー知事の写真を撮るなら来月26日にコルサコフの脇のアニワ岬の丘の上の風力発電用の風車の回転開始の式典があるぞ。その季節は低気圧の墓場を言われているオホーツクの海は何時も荒れている。レーダーの角度を上げて海面の反射を避けるほどだ。だけど諦めたほうがいい。お前は丘には入らないほうが良い。今度は俺が取り締まる立場になるからな」
「そうか残念だな。せっかくの機会なのに。彼が海外に出たときに撮ることにしよう」
2009年12月25日金曜日
オホーツクの鯱
セルゲェが前に歩いていくと前方にいた軍の中尉が直立不動の姿勢を急にとり、敬礼した。セルゲェの肩に国境警備隊中佐の肩章を見たためだ。内務省直轄の国境警備隊の階級は軍の同じ階級よりも格が上である。まして相手がサハリンの国境警備隊の指揮官で中佐とあっては緊張せざるを得なかった。
「何ゆえ国境警備隊を止めるのか」
セルゲェの態度は強い。
「上部からの指示により不審な外国人の捜索をしております」
「それは犯罪者か」
「いえ、ただ捜索をしているとのことです」
「それで見つけたらどうするのだ」
「拘束して連行せよとの命令です」
「犯罪者でもなんでもないものを拘束して連行する、そんなことが許されるわけがないだろう。ともかく国境警備隊の指揮官が自ら部隊を率いて移動中である。邪魔をすることは許さん。貴官の姓名は」
「ユーラ ペトロビッチ ガラバーノフであります。が、一応チェックしないとお通しできません」
「国境警備隊をチェックする権限など軍にはない」
そう言い切ったセルゲェは右手をL字型に上に揚げた。その瞬間国境警備隊の兵士たちが軍の兵士に向かってカラシニコフを構えた。それだけではない、銃の安全装置をはずしたのである。さらに装甲車輌の上の機関銃もその中尉にピタリと狙いを定めた。
驚いたのは軍の中尉だ。内務省管轄の国境警備隊が本気で軍に発砲しようとしている。この国で、国境警備隊との間で発砲事件など起こせば、軍事裁判で必ず負け、階級剥奪どころでなく下手をするとシベリア行きになってしまう。軍の兵士たちも動揺していた。皆銃の筒先を地面に向けて戦う意思のないことを示している。
真っ青になった中尉は、
「も、申し訳ありません。その通りでした。我々にチェックする権限などありません。どうぞお通りください。い、いや、我々が先導いたします」
「先導など要らん。貴官のしたことは軍法会議ものだ」
「は、申し訳ありません。お許しください」
もう中尉の膝も手も震えている。
「お前も上官に命令されてのことだろう。それならお前たちと出会わなかったことにしてやっても良いが」
「是非そういうことでお願いしたいのですが」
「よし、お前たちとは会わなかったことにしておく。出会ったとなれば処分せざるを得ない。国境警備隊とあわや銃撃戦になるところだったと知れればただでは済むまいからな」
「は、有難うございます」
セルゲェは車に戻ると戦闘態勢のまま車列を発進させた。あとに呆然とたたずむ軍の兵士たちがいた。中尉が言った。
「俺たちは今誰にも会わなかった。誰も見なかった。誰とも話さなかった。良いな」
「ダー」
兵士たちが一斉に返事をした。その時には国境警備隊の車列は既に遠ざかっていた。
「何ゆえ国境警備隊を止めるのか」
セルゲェの態度は強い。
「上部からの指示により不審な外国人の捜索をしております」
「それは犯罪者か」
「いえ、ただ捜索をしているとのことです」
「それで見つけたらどうするのだ」
「拘束して連行せよとの命令です」
「犯罪者でもなんでもないものを拘束して連行する、そんなことが許されるわけがないだろう。ともかく国境警備隊の指揮官が自ら部隊を率いて移動中である。邪魔をすることは許さん。貴官の姓名は」
「ユーラ ペトロビッチ ガラバーノフであります。が、一応チェックしないとお通しできません」
「国境警備隊をチェックする権限など軍にはない」
そう言い切ったセルゲェは右手をL字型に上に揚げた。その瞬間国境警備隊の兵士たちが軍の兵士に向かってカラシニコフを構えた。それだけではない、銃の安全装置をはずしたのである。さらに装甲車輌の上の機関銃もその中尉にピタリと狙いを定めた。
驚いたのは軍の中尉だ。内務省管轄の国境警備隊が本気で軍に発砲しようとしている。この国で、国境警備隊との間で発砲事件など起こせば、軍事裁判で必ず負け、階級剥奪どころでなく下手をするとシベリア行きになってしまう。軍の兵士たちも動揺していた。皆銃の筒先を地面に向けて戦う意思のないことを示している。
真っ青になった中尉は、
「も、申し訳ありません。その通りでした。我々にチェックする権限などありません。どうぞお通りください。い、いや、我々が先導いたします」
「先導など要らん。貴官のしたことは軍法会議ものだ」
「は、申し訳ありません。お許しください」
もう中尉の膝も手も震えている。
「お前も上官に命令されてのことだろう。それならお前たちと出会わなかったことにしてやっても良いが」
「是非そういうことでお願いしたいのですが」
「よし、お前たちとは会わなかったことにしておく。出会ったとなれば処分せざるを得ない。国境警備隊とあわや銃撃戦になるところだったと知れればただでは済むまいからな」
「は、有難うございます」
セルゲェは車に戻ると戦闘態勢のまま車列を発進させた。あとに呆然とたたずむ軍の兵士たちがいた。中尉が言った。
「俺たちは今誰にも会わなかった。誰も見なかった。誰とも話さなかった。良いな」
「ダー」
兵士たちが一斉に返事をした。その時には国境警備隊の車列は既に遠ざかっていた。
2009年12月24日木曜日
オホーツクの鯱
再びコルサコフ街道
伊達の乗った車の前を機関銃を積んだ装甲車両が走っている。銃座には耳隠しを上に揚げて紐で結び止めたロシア帽をかぶり、厚手の軍用コートを来た警備隊の兵士が冷たい風に顔を真っ赤にしながら警戒に当たっている。伊達の車の運転手も同じロシア帽をかぶっている。帽子の前には国境警備隊を示すマークが光っている。国境警備隊車輌が隊列を組み、かつ隊長旗を掲げて走るのを邪魔するものなどなかった。
「ウメニャ アドゥノ バプロス イェスチ(質問がある)」
伊達が口を開いた。
「ノ シト(なんだい)」
セルゲェが軽く答えた。運転席とは防音ガラスで仕切られているためにこの会話は誰にも聞かれることがない。運転席との会話は電話機を介して行うようだ。
「ホルムスクから俺を乗せてきたタクシーの運転手はどうなったんだ」
「国境警備隊で保護している」
「彼は何もしていない。ただの運転手だぞ」
「お前が無事に定期船に乗って国外に出るまでは保護下に置いておく。お前を探しているやつらの手に運転手が入るとどういう妨害をしてくるか分からないからな」
「ずいぶん大変なリスクをとらせてしまったな」
「いや、いいんだよ。アーニャの本当の父親をシベリヤなどにやるわけにはいけない」
「済まん。いつか必ずこの礼はする」
「礼なんか要らん。国境警備隊は不審な外国人を国内に入れないのが仕事なのだ。これは我々の仕事なんだ。気にするな。それよりもホテルにある荷物は諦めてくれ。それを持ってこようとすると面倒が一つ増えるから」
「荷物なんかどうでもいいよ。何も怪しいものが入っているわけではないがね」
「こんな会い方ではなく、何時かゆっくりあの雪の中のへリポートの話でもしたいな」
「ああ、あの床にハート型の穴を開けただけの仕切りも何にもない丸見えのトイレのあったヘリポートだな」
「そうだ。まだああいうトイレは珍しくないぞ」
昔話が出かけたとき、車が急に停まった。前から白い息を吐きながら部下が走ってきたセルゲェが窓のガラスを下げた。途端に外の冷たい空気が流れ込んでくる。
「前方に軍の検問があります。指揮官の中尉が我々の移動の目的を聞いておりますが如何いたしますか」
「俺が話をしよう。全員戦闘配置につけ」
「はっ、戦闘配置を指示します」
セルゲェは伊達のほうを振り返るとにっこり笑い、車を降りた。直ぐに運転手が分厚いコートを後ろから着せる。
伊達の乗った車の前を機関銃を積んだ装甲車両が走っている。銃座には耳隠しを上に揚げて紐で結び止めたロシア帽をかぶり、厚手の軍用コートを来た警備隊の兵士が冷たい風に顔を真っ赤にしながら警戒に当たっている。伊達の車の運転手も同じロシア帽をかぶっている。帽子の前には国境警備隊を示すマークが光っている。国境警備隊車輌が隊列を組み、かつ隊長旗を掲げて走るのを邪魔するものなどなかった。
「ウメニャ アドゥノ バプロス イェスチ(質問がある)」
伊達が口を開いた。
「ノ シト(なんだい)」
セルゲェが軽く答えた。運転席とは防音ガラスで仕切られているためにこの会話は誰にも聞かれることがない。運転席との会話は電話機を介して行うようだ。
「ホルムスクから俺を乗せてきたタクシーの運転手はどうなったんだ」
「国境警備隊で保護している」
「彼は何もしていない。ただの運転手だぞ」
「お前が無事に定期船に乗って国外に出るまでは保護下に置いておく。お前を探しているやつらの手に運転手が入るとどういう妨害をしてくるか分からないからな」
「ずいぶん大変なリスクをとらせてしまったな」
「いや、いいんだよ。アーニャの本当の父親をシベリヤなどにやるわけにはいけない」
「済まん。いつか必ずこの礼はする」
「礼なんか要らん。国境警備隊は不審な外国人を国内に入れないのが仕事なのだ。これは我々の仕事なんだ。気にするな。それよりもホテルにある荷物は諦めてくれ。それを持ってこようとすると面倒が一つ増えるから」
「荷物なんかどうでもいいよ。何も怪しいものが入っているわけではないがね」
「こんな会い方ではなく、何時かゆっくりあの雪の中のへリポートの話でもしたいな」
「ああ、あの床にハート型の穴を開けただけの仕切りも何にもない丸見えのトイレのあったヘリポートだな」
「そうだ。まだああいうトイレは珍しくないぞ」
昔話が出かけたとき、車が急に停まった。前から白い息を吐きながら部下が走ってきたセルゲェが窓のガラスを下げた。途端に外の冷たい空気が流れ込んでくる。
「前方に軍の検問があります。指揮官の中尉が我々の移動の目的を聞いておりますが如何いたしますか」
「俺が話をしよう。全員戦闘配置につけ」
「はっ、戦闘配置を指示します」
セルゲェは伊達のほうを振り返るとにっこり笑い、車を降りた。直ぐに運転手が分厚いコートを後ろから着せる。
2009年12月23日水曜日
オホーツクの鯱
学校に行くアーニャが伊達に挨拶に来た。
「おじさんありがとう。また遊びに来て。きっと来てね」
と言って両手を差し出した。
伊達はアーニャの両脇に手を入れると軽々と持ち上げ抱きかかえた。アーニャは両手を伊達の首に回すと頬をつけて伊達の耳元に小さな声で言った。
「リュブリュー パパ(愛してるわ、パパ)」
そして、すぐさま鞄を持って外に駆け出していった。何もいえなかった伊達は黙ってその姿を見ていた。窓の外の視界から消えるまでずっと…
「では我々も出かけよう」
セルゲェが伊達に向かっていった。声をかけなければ現実に戻れないように感じたからだ。
「そうだな、色々世話になったな。アーニャにも会えて嬉しかった」
「俺は外で部下と打ち合わせがある。ターニャにさよならを言っておいてくれ。そうだシャンパンを飲まなくちゃいけない。ターニャに用意してもらってくれ。ちょっとしたら迎えに来るから」
セルゲェの心配りが胸にしみた。ターニャが目の前に来ていた。伊達の目をじっと見つめている。ターニャの瞳から発射される気持ちが伊達の瞳に入り、伊達の脳の中に「リュブリュー チェヴャ(愛してるわ)」と焼印のように焼き付けた。
「ずっと、ずっと…」
と伊達が言いかけたときターニャが、
「ニェ ナダ スカザーチ(言っちゃだめ!)」
と制止した。既に口にしてはいけない言葉なのである。心で、気持ちで、とターニャは言っているのだ。
セルゲェが戻ってきた。ターニャはシャンパンの栓を勢いよく天井に飛ばした。そして三つのグラスに注ぐと、ターニャとセルゲェが、
「シェスリーバ(ご無事で)」
と声を揃えて言った。
「スパシバ」
伊達とセルゲェは外に出て国境警備隊の車に乗り込んだ。マフラーからは白い排気が流れ出ている。機関銃を積んだ先導車に続いて伊達を乗せた車は走り出した。
崩れるようにソファに体を投げ出したターニャが大きく体を震わせながら泣き始めた。雪が降り出すのも間もなくに違いない。空を暗く厚い雲が覆っていた。
「おじさんありがとう。また遊びに来て。きっと来てね」
と言って両手を差し出した。
伊達はアーニャの両脇に手を入れると軽々と持ち上げ抱きかかえた。アーニャは両手を伊達の首に回すと頬をつけて伊達の耳元に小さな声で言った。
「リュブリュー パパ(愛してるわ、パパ)」
そして、すぐさま鞄を持って外に駆け出していった。何もいえなかった伊達は黙ってその姿を見ていた。窓の外の視界から消えるまでずっと…
「では我々も出かけよう」
セルゲェが伊達に向かっていった。声をかけなければ現実に戻れないように感じたからだ。
「そうだな、色々世話になったな。アーニャにも会えて嬉しかった」
「俺は外で部下と打ち合わせがある。ターニャにさよならを言っておいてくれ。そうだシャンパンを飲まなくちゃいけない。ターニャに用意してもらってくれ。ちょっとしたら迎えに来るから」
セルゲェの心配りが胸にしみた。ターニャが目の前に来ていた。伊達の目をじっと見つめている。ターニャの瞳から発射される気持ちが伊達の瞳に入り、伊達の脳の中に「リュブリュー チェヴャ(愛してるわ)」と焼印のように焼き付けた。
「ずっと、ずっと…」
と伊達が言いかけたときターニャが、
「ニェ ナダ スカザーチ(言っちゃだめ!)」
と制止した。既に口にしてはいけない言葉なのである。心で、気持ちで、とターニャは言っているのだ。
セルゲェが戻ってきた。ターニャはシャンパンの栓を勢いよく天井に飛ばした。そして三つのグラスに注ぐと、ターニャとセルゲェが、
「シェスリーバ(ご無事で)」
と声を揃えて言った。
「スパシバ」
伊達とセルゲェは外に出て国境警備隊の車に乗り込んだ。マフラーからは白い排気が流れ出ている。機関銃を積んだ先導車に続いて伊達を乗せた車は走り出した。
崩れるようにソファに体を投げ出したターニャが大きく体を震わせながら泣き始めた。雪が降り出すのも間もなくに違いない。空を暗く厚い雲が覆っていた。
2009年12月22日火曜日
オホーツクの鯱
「俺もセルゲェがターニャの旦那だと聞いて安心したよ。でもターニャが他の男のものになったと言うのは何処かで喜べないけど」
「駄目、それを言わないで。これが一番良い結果だと思うの。現実の世界では」
「そうだな。でもごめん」
伊達はターニャの体をまさぐっていた。以前より少し肉がついたターニャの体は前より丸みを帯びていた。
「もう一緒にはなれないけど、これくらいならきっと神様も許してくれるんじゃないかしら」
と言うなり、ターニャはダテの唇に自分の唇を重ねた。そしてああぁ、というため息とともに、
「リュブリュー チェビァ(愛してるわ)」
と何度も繰り返した。
唇を離したターニャに、
「もしも何か大きな問題が起きたら必ず俺に連絡してくれ。何があっても君とアーニャを助ける。何があっても」
と囁いた。後年本当に、助けるためにもう一度ロシアに入るとはこのときは予想していなかったのだが。
「分かった。有難う。もう休まなくちゃ。じゃ、スパコイヌイ ノーチェ(おやすみなさい)」
「ああ、お休み」
客用のベッドルームに入った伊達はベッドに潜り込んだ。寝付けなかった。いくら寝ようとしても、右へ左へ姿勢を変えてみても駄目だった。興奮しているからだ。追われている緊張感がゼロではなかったが、何といっても自分に娘がいたこと、昔の恋人ターニャが国境警備隊の友人だったセルゲェの妻になっていること、娘のアーニャが父親だと気がついて抱きついてきたこと、そしてターニャのあの懐かしい体臭をかいでしまったこと、興奮することが余りにも多すぎた。しかも全く予期せぬ形でそれらが一時に現れてきてしまった。直ぐ隣の部屋にはアーニャやターニャが寝ている。それだけで伊達の心臓は速く強く動いていたのだ。
眠れぬまま朝を迎えた。
「ドブロェ ウートラ(お早う)」
と、普通に言ってテーブルにグラズーニャを運ぶターニャに伊達は心遣いと無理を感じていた。アーニャは昨晩の事はなかったような顔で楽しく朝食の用意を手伝っている。
伊達にとってグラズーニャも懐かしかった。ただの目玉焼きなのだが日本などでは卵が二個と決まっているのがロシアでは三個なのだった。かつて、「目玉焼きもトロイカなのか」などと言って笑ったものだ。
「駄目、それを言わないで。これが一番良い結果だと思うの。現実の世界では」
「そうだな。でもごめん」
伊達はターニャの体をまさぐっていた。以前より少し肉がついたターニャの体は前より丸みを帯びていた。
「もう一緒にはなれないけど、これくらいならきっと神様も許してくれるんじゃないかしら」
と言うなり、ターニャはダテの唇に自分の唇を重ねた。そしてああぁ、というため息とともに、
「リュブリュー チェビァ(愛してるわ)」
と何度も繰り返した。
唇を離したターニャに、
「もしも何か大きな問題が起きたら必ず俺に連絡してくれ。何があっても君とアーニャを助ける。何があっても」
と囁いた。後年本当に、助けるためにもう一度ロシアに入るとはこのときは予想していなかったのだが。
「分かった。有難う。もう休まなくちゃ。じゃ、スパコイヌイ ノーチェ(おやすみなさい)」
「ああ、お休み」
客用のベッドルームに入った伊達はベッドに潜り込んだ。寝付けなかった。いくら寝ようとしても、右へ左へ姿勢を変えてみても駄目だった。興奮しているからだ。追われている緊張感がゼロではなかったが、何といっても自分に娘がいたこと、昔の恋人ターニャが国境警備隊の友人だったセルゲェの妻になっていること、娘のアーニャが父親だと気がついて抱きついてきたこと、そしてターニャのあの懐かしい体臭をかいでしまったこと、興奮することが余りにも多すぎた。しかも全く予期せぬ形でそれらが一時に現れてきてしまった。直ぐ隣の部屋にはアーニャやターニャが寝ている。それだけで伊達の心臓は速く強く動いていたのだ。
眠れぬまま朝を迎えた。
「ドブロェ ウートラ(お早う)」
と、普通に言ってテーブルにグラズーニャを運ぶターニャに伊達は心遣いと無理を感じていた。アーニャは昨晩の事はなかったような顔で楽しく朝食の用意を手伝っている。
伊達にとってグラズーニャも懐かしかった。ただの目玉焼きなのだが日本などでは卵が二個と決まっているのがロシアでは三個なのだった。かつて、「目玉焼きもトロイカなのか」などと言って笑ったものだ。
2009年12月21日月曜日
オホーツクの鯱
「今なんて言った」
「私、貴方が私の本当のパパだって分かってる」
そういって見つめるアーニャの目を見て、伊達の目は急に潤んできた。
「違う、アーニャのパパはセルゲェだよ」
声を詰まらせながら伊達が言った。
「いいの、それは分かってる。今だけでいいからパパでいて。私の顔を見て。パパと似てないでしょ。ずっと変だと思っていたの。でもある時ママの化粧台の引き出しの中に一枚の写真を見つけたの。そこにはママと日本人の男の人が仲良く並んで写ってた。その男の人の顔と私はそっくりなの。だから分かった、私の本当のパパはその人だって。カタクラさん、本当は伊達さんでしょ。写真の裏に、ス ダテ(伊達と一緒に)、って書いてあったもの」
「それは、それは違う」
伊達は慌てていた。そうだ、と言いたかった。でもそれを言ってはいけない、言ったらターニャとセルゲェの好意を無にしてしまう。
「いいのよ、本当のパパ。私のパパだと言わなくてもいいのよ。分かっているから、言えないのも。ここに来て抱っこして、お願い、パパ」
伊達は断れなかった。ただ涙が出た。しかしそれも構わずにベッドに入りこみ、アーニャをきつく抱いた。アーニャは幸せそうな顔をして、暫くして寝息を立てた。伊達はアーニャの額にキスをしてベッドを離れた。目からまだ涙が流れていた。声を上げて泣きたかった。
その伊達はアーニャの寝室の入り口に立っているターニャに気がついた。近づき、抱き合った。
「アーニャ ズナーエト(アーニャは知っているよ)」
「私も見ていて分かったわ。あの子も大きくなったのね。でも有難う。アーニャが幸せそうな顔をしている。あんな顔は初めて見たわ」
「フショ ノルマリノ(上手く行ってるか)」
「ニェート(いいえ)」
「シト プロブレーマ(何が問題なんだ)」
「うそ、皆上手く行っているわ。ただ貴方がいないのが寂しかっただけ」
「イズビニーチェ(ごめん)…」
「いいの」
伊達はぐっとターニャを抱きしめた。ターニャが動くたびに服と体の間から、ふわっと、ターニャの懐かしい匂いが鼻先に来る。伊達はターニャと初めて会った頃を思い出していた。
「セルゲェは」
「とっても良い人よ。私のこともアーニャのこともとてもよく面倒を見てくれるの」
「私、貴方が私の本当のパパだって分かってる」
そういって見つめるアーニャの目を見て、伊達の目は急に潤んできた。
「違う、アーニャのパパはセルゲェだよ」
声を詰まらせながら伊達が言った。
「いいの、それは分かってる。今だけでいいからパパでいて。私の顔を見て。パパと似てないでしょ。ずっと変だと思っていたの。でもある時ママの化粧台の引き出しの中に一枚の写真を見つけたの。そこにはママと日本人の男の人が仲良く並んで写ってた。その男の人の顔と私はそっくりなの。だから分かった、私の本当のパパはその人だって。カタクラさん、本当は伊達さんでしょ。写真の裏に、ス ダテ(伊達と一緒に)、って書いてあったもの」
「それは、それは違う」
伊達は慌てていた。そうだ、と言いたかった。でもそれを言ってはいけない、言ったらターニャとセルゲェの好意を無にしてしまう。
「いいのよ、本当のパパ。私のパパだと言わなくてもいいのよ。分かっているから、言えないのも。ここに来て抱っこして、お願い、パパ」
伊達は断れなかった。ただ涙が出た。しかしそれも構わずにベッドに入りこみ、アーニャをきつく抱いた。アーニャは幸せそうな顔をして、暫くして寝息を立てた。伊達はアーニャの額にキスをしてベッドを離れた。目からまだ涙が流れていた。声を上げて泣きたかった。
その伊達はアーニャの寝室の入り口に立っているターニャに気がついた。近づき、抱き合った。
「アーニャ ズナーエト(アーニャは知っているよ)」
「私も見ていて分かったわ。あの子も大きくなったのね。でも有難う。アーニャが幸せそうな顔をしている。あんな顔は初めて見たわ」
「フショ ノルマリノ(上手く行ってるか)」
「ニェート(いいえ)」
「シト プロブレーマ(何が問題なんだ)」
「うそ、皆上手く行っているわ。ただ貴方がいないのが寂しかっただけ」
「イズビニーチェ(ごめん)…」
「いいの」
伊達はぐっとターニャを抱きしめた。ターニャが動くたびに服と体の間から、ふわっと、ターニャの懐かしい匂いが鼻先に来る。伊達はターニャと初めて会った頃を思い出していた。
「セルゲェは」
「とっても良い人よ。私のこともアーニャのこともとてもよく面倒を見てくれるの」
2009年12月20日日曜日
オホーツクの鯱
二人は我に返って互いに近づき挨拶をした。握手ではなく自然に互いの頬を寄せてのキスとなった。
「ようこそお出でに…」
「お世話になりま…」
何となく初対面の挨拶にしては馴れ馴れしいのかよそよそしいのか中途半端な挨拶劇が繰り広げられた。その様子もアーニャがじっと見つめていた。何かおかしなことがあれば直ぐに騒ぎ立てるアーニャが何も言わないことにセルゲェは却って不安を感じていた。
食事になった。テーブルには伊達が好きだったロシア料理が並んでいた。特にメインに出てきたのは暖炉の熱で焼いた壷料理だった。壷の上に張ったパイ生地が焦げて茶色になって膨らみ、まるで大きなきのこのようになっている。かつてはペイチカの中に並べてつくった料理である。中にはペルメニ(ロシア餃子)ときのこがホワイトソースとともに入れられている。
「これは素晴らしい。懐かしい味だ。昔とちっとも変わっていない」
と、パイ皮を破り中のペルメニをフーフー息を拭きかけながら食べた伊達が思わず言ったとき、
「カタクラさん、ママのペルメニを前にも食べたことがあるの」
と、アーニャが聞いた。
「前に食べたのはハバロフスクのレストランで、だよ。そのときと同じ味なんでびっくりしたんだよ」
伊達の答えにアーニャは、
「ふーん、そうなの」
と、納得していない風だった。
食事も終わり、アーニャがベッドに入る時刻になった。
「パパ、アーニャはカタクラさんのお話を聞きながら寝たいな。ねぇ、いいでしょ」
アーニャが何故かおねだりをした。
「カタクラさん、お願いできますか。いつも同じ話ではつまらないのでしょう」
セルゲェは、伊達がもう二度とこの子と一緒にゆっくりする時間を持てないと思っていた。今晩しかないのだと。
「いいよ。でも面白いお話があるかなぁ」
伊達は、セルゲェの気配りを感じて明るくオーケーした。
10分ほどして伊達がアーニャの寝室に入ってみるとアーニャがベッドの中から手招きをしていた。伊達はベッドの端に腰掛けて、
「どんなお話が良いのかな」
と優しく声をかけた。既に伊達はお父さんになっていたのである。
「お話はいいからベッドに入って、お願いだから」
「えっ、何故」
「だってこれが最初で最後になるかもしれないでしょ、パパがベッドに入るのが」
「ようこそお出でに…」
「お世話になりま…」
何となく初対面の挨拶にしては馴れ馴れしいのかよそよそしいのか中途半端な挨拶劇が繰り広げられた。その様子もアーニャがじっと見つめていた。何かおかしなことがあれば直ぐに騒ぎ立てるアーニャが何も言わないことにセルゲェは却って不安を感じていた。
食事になった。テーブルには伊達が好きだったロシア料理が並んでいた。特にメインに出てきたのは暖炉の熱で焼いた壷料理だった。壷の上に張ったパイ生地が焦げて茶色になって膨らみ、まるで大きなきのこのようになっている。かつてはペイチカの中に並べてつくった料理である。中にはペルメニ(ロシア餃子)ときのこがホワイトソースとともに入れられている。
「これは素晴らしい。懐かしい味だ。昔とちっとも変わっていない」
と、パイ皮を破り中のペルメニをフーフー息を拭きかけながら食べた伊達が思わず言ったとき、
「カタクラさん、ママのペルメニを前にも食べたことがあるの」
と、アーニャが聞いた。
「前に食べたのはハバロフスクのレストランで、だよ。そのときと同じ味なんでびっくりしたんだよ」
伊達の答えにアーニャは、
「ふーん、そうなの」
と、納得していない風だった。
食事も終わり、アーニャがベッドに入る時刻になった。
「パパ、アーニャはカタクラさんのお話を聞きながら寝たいな。ねぇ、いいでしょ」
アーニャが何故かおねだりをした。
「カタクラさん、お願いできますか。いつも同じ話ではつまらないのでしょう」
セルゲェは、伊達がもう二度とこの子と一緒にゆっくりする時間を持てないと思っていた。今晩しかないのだと。
「いいよ。でも面白いお話があるかなぁ」
伊達は、セルゲェの気配りを感じて明るくオーケーした。
10分ほどして伊達がアーニャの寝室に入ってみるとアーニャがベッドの中から手招きをしていた。伊達はベッドの端に腰掛けて、
「どんなお話が良いのかな」
と優しく声をかけた。既に伊達はお父さんになっていたのである。
「お話はいいからベッドに入って、お願いだから」
「えっ、何故」
「だってこれが最初で最後になるかもしれないでしょ、パパがベッドに入るのが」
2009年12月19日土曜日
オホーツクの鯱
キッチンはあの奥だ。ターニャはあの奥にいるのだろうか。伊達は赤い絨毯や、壁にかけられた油絵などを見回しながらも心はターニャが出てきたらどうしようとそればかりを考えていた。胸がどきどきと脈打っている。そして暖炉のマントルピースの上に小さな、日本の色鮮やかな鞠を見つけたときにさらに速く脈打った。
「パパ、お客さまなの」
その声に振り返った伊達の目に目元と口許が伊達にそっくりな女の子が立っているのが映った。
「ああ、そうだ。紹介しよう。娘のアーニャです。こちらはパパのふるーい友人の片倉さん」
「えっ、日本の人なの」
伊達はたまらずに口を開いていた。
「ええ、そうですよ。日本から来たんだよ。今晩一晩泊めていただくことになってるんだ」
伊達は目元を緩めた優しさ溢れる顔で言った。
「じゃあ、カ、タク、ラさん、アーニャに日本のお話を聞かせて」
「アーニャ、それはご飯のあとで。ママを呼んで来て、片倉さんを紹介しなくちゃ」
セルゲェがそういうと直ぐに、
「カ、タク、ラさんはママの古いお友達じゃないの」
と、聞き返した。
伊達とセルゲェはドキッとした。が瞬時にこれは単純にそう思って聞いているだけだと自分たちに言い聞かせていた。
「い、いや違うよ。ママは初めてなんだ。話は何度も聞いて知ってはいるはずだけど。とにかくママを呼んで来て」
アーニャに呼ばれてターニャがキッチンから出てきた。そのまま歩こうとしたのだが伊達の顔を見た瞬間、足が止まってしまった。目が丸く開かれたままになっている。かたや、伊達もターニャの姿を見た瞬間に体が硬直していた。あのターニャの、少しくぼんだ眼、黒い瞳、伊達は我を忘れて、
「ターニャ…」
とつぶやいた。その様子をアーニャがじっと見つめている。この年頃の女の子はおませだ。既に男女の関係をそのしぐさから読み取る潜在的能力を持っている。
そのアーニャの視線に気がついたセルゲェが、
「紹介しよう。家内のターニャです。こちらが何時も話している古い友人の片倉さんだ。さあさ、ご挨拶して」
と慌てて大きな声で促した。
「パパ、お客さまなの」
その声に振り返った伊達の目に目元と口許が伊達にそっくりな女の子が立っているのが映った。
「ああ、そうだ。紹介しよう。娘のアーニャです。こちらはパパのふるーい友人の片倉さん」
「えっ、日本の人なの」
伊達はたまらずに口を開いていた。
「ええ、そうですよ。日本から来たんだよ。今晩一晩泊めていただくことになってるんだ」
伊達は目元を緩めた優しさ溢れる顔で言った。
「じゃあ、カ、タク、ラさん、アーニャに日本のお話を聞かせて」
「アーニャ、それはご飯のあとで。ママを呼んで来て、片倉さんを紹介しなくちゃ」
セルゲェがそういうと直ぐに、
「カ、タク、ラさんはママの古いお友達じゃないの」
と、聞き返した。
伊達とセルゲェはドキッとした。が瞬時にこれは単純にそう思って聞いているだけだと自分たちに言い聞かせていた。
「い、いや違うよ。ママは初めてなんだ。話は何度も聞いて知ってはいるはずだけど。とにかくママを呼んで来て」
アーニャに呼ばれてターニャがキッチンから出てきた。そのまま歩こうとしたのだが伊達の顔を見た瞬間、足が止まってしまった。目が丸く開かれたままになっている。かたや、伊達もターニャの姿を見た瞬間に体が硬直していた。あのターニャの、少しくぼんだ眼、黒い瞳、伊達は我を忘れて、
「ターニャ…」
とつぶやいた。その様子をアーニャがじっと見つめている。この年頃の女の子はおませだ。既に男女の関係をそのしぐさから読み取る潜在的能力を持っている。
そのアーニャの視線に気がついたセルゲェが、
「紹介しよう。家内のターニャです。こちらが何時も話している古い友人の片倉さんだ。さあさ、ご挨拶して」
と慌てて大きな声で促した。
2009年12月18日金曜日
オホーツクの鯱
「俺の目からはいい男と結婚して幸せに暮しているように見えるが」
「セルゲェ、お前、ターニャが何処にいるのか知っているのか」
「知っているよ。会ってみるか」
「いや、会いたいという気持ちはあるんだがいまさら会えないと言う気持ちもある」
「そんなことを言っても伊達、お前はそう簡単にサハリンに来るわけにもいかんだろう。会えるときに会っておいた方がいいんじゃないか」
「いや、それはそうだが…」
「どうしても今夜会わねばならんのだが」
「何故」
「俺の家の中でお前が来るのを待っているんだ」
「な、何だって。ターニャが何故お前のうちに…」
「そうだよ。今お前の思った通りさ。お前が姿を消したあと俺が何かと相談に乗っているうちに俺の女房になったのだよ」
「お前の奥さんにか」
「不服か」
「いや、こんなあり難いことはない。あれからターニャがどうしているかはずっと気になっていたんだ」
「もう一つ言っておかなければならない事がある」
「何だ。もう何を聞いても驚かないぞ」
「俺たちには子供がいる。女の子だ。年は11歳で名前はアーニャ、本当は敦美って言うんだ」
「なんで日本の名前なんだ。えっ、ひょっとして」
「そうだ、そのひょっとしてさ。アーニャは俺がターニャと付き合う前に出来た子供、つまりお前の子だよ」
「ターニャの腹に子供がいたのか…」
「アーニャは俺を父親だと思っている。そこでだ、伊達のことを俺の友達として、勿論片倉さんとしてアーニャに紹介するから、そういう風に振舞ってくれないか」
「分かった。今の家庭を壊すなんてしたら罰が当たる。お前の言うとおりにしよう」
「良し、では家に入るか」
「ま、待ってくれ。ターニャにどういう顔で会えばよいのか心が定まらないんだ」
「定まらなくていいんだよ。ターニャだってどう対応していいか悩んでいるはずだから」
セルゲェに促されて伊達は玄関への小道を歩き始めた。真っ白く塗られた家の前庭には多くの植物が植えられていたが冬を迎えた今、緑も花も存在しなかった。階段を三段上って玄関の前に来た。セルゲェがブザーを鳴らしてドアを開けた。その瞬間中から暖かい空気と光が漏れ出してきた。その光に吸い込まれるように伊達は中に入った。二人は玄関で靴を脱いで壁際に並べた。もう一つドアを開けて中に入った。大きなリビングだった。正面に暖炉があり、大きな薪が赤い炎をあげて燃えていた。暖炉の前にはソファが、そして奥にはダイニングテーブルが置いてある。
「セルゲェ、お前、ターニャが何処にいるのか知っているのか」
「知っているよ。会ってみるか」
「いや、会いたいという気持ちはあるんだがいまさら会えないと言う気持ちもある」
「そんなことを言っても伊達、お前はそう簡単にサハリンに来るわけにもいかんだろう。会えるときに会っておいた方がいいんじゃないか」
「いや、それはそうだが…」
「どうしても今夜会わねばならんのだが」
「何故」
「俺の家の中でお前が来るのを待っているんだ」
「な、何だって。ターニャが何故お前のうちに…」
「そうだよ。今お前の思った通りさ。お前が姿を消したあと俺が何かと相談に乗っているうちに俺の女房になったのだよ」
「お前の奥さんにか」
「不服か」
「いや、こんなあり難いことはない。あれからターニャがどうしているかはずっと気になっていたんだ」
「もう一つ言っておかなければならない事がある」
「何だ。もう何を聞いても驚かないぞ」
「俺たちには子供がいる。女の子だ。年は11歳で名前はアーニャ、本当は敦美って言うんだ」
「なんで日本の名前なんだ。えっ、ひょっとして」
「そうだ、そのひょっとしてさ。アーニャは俺がターニャと付き合う前に出来た子供、つまりお前の子だよ」
「ターニャの腹に子供がいたのか…」
「アーニャは俺を父親だと思っている。そこでだ、伊達のことを俺の友達として、勿論片倉さんとしてアーニャに紹介するから、そういう風に振舞ってくれないか」
「分かった。今の家庭を壊すなんてしたら罰が当たる。お前の言うとおりにしよう」
「良し、では家に入るか」
「ま、待ってくれ。ターニャにどういう顔で会えばよいのか心が定まらないんだ」
「定まらなくていいんだよ。ターニャだってどう対応していいか悩んでいるはずだから」
セルゲェに促されて伊達は玄関への小道を歩き始めた。真っ白く塗られた家の前庭には多くの植物が植えられていたが冬を迎えた今、緑も花も存在しなかった。階段を三段上って玄関の前に来た。セルゲェがブザーを鳴らしてドアを開けた。その瞬間中から暖かい空気と光が漏れ出してきた。その光に吸い込まれるように伊達は中に入った。二人は玄関で靴を脱いで壁際に並べた。もう一つドアを開けて中に入った。大きなリビングだった。正面に暖炉があり、大きな薪が赤い炎をあげて燃えていた。暖炉の前にはソファが、そして奥にはダイニングテーブルが置いてある。
2009年12月17日木曜日
オホーツクの鯱
「ヤー セルゲェ(私はセルゲェです)、ザヴィリ(お忘れですか)」
伊達はいぶかしげにセルゲェを見つめた。
「ずっと前だが、ホルムスクのヘリポートで吹き付ける吹雪の中を二人で体を温めあいながら過ごしたセルゲェといえば思い出してもらえるか」
「おお、セルゲェ。あのセルゲェか」
「思い出してくれたか。ガスパジーン カタクラ、事情があってある機関がサハリンを訪問中の日本人を探している。国境警備隊は何もしていない外国人を事件に巻き込みたくない。そこで貴方を保護下に置き、出来れば明日の定期船で日本に出国してもらおうと考えている。その件を了解してくれるか」
「それはありがたい申し出です。私は日本のカメラマンですが母親が急病になったと言う知らせがあったのでホルムスクからタクシーをとばしてコルサコフに向かう途中でした。明日の定期船に乗れればそれに越したことはありません」
「ご了解いただけて嬉しく思います。暫く待っていてください」
そういうと隊長は司令官のところに戻った。
「カタクラは我々も申し出を了解した。これからユージノサハリンスクに戻り明日の朝コルサコフに車で送り、そのまま定期船に乗せる。ユージノの滞在先だがホテルは国家保安局が見張っているだろうから俺の家に友人として泊める。保安局の人間が近づくと面倒だから一晩我が家の周りに警備の兵を配置してくれ。それと明日の朝のヘリを含む出動の用意を頼む」
「分かりました。ではそのように手配します」
国境警備隊隊長の家
国境警備隊隊長セルゲェに家に着いたときには周囲は物々しい警戒振りになっていた。家の前の車の中でセルゲェは伊達に向かってにこやかに笑いながら、
「昔サハリンホテルのフロントにいたターニャを覚えているか」
と突然聞いた。
「えっ、ターニャ。あのチョルナヤ モーリェの観光地のソチから来た女の子か」
伊達は何故か動揺しながら答えた。
「ずいぶん親しかったそうじゃないか」
「あぁ、あの頃は…。でも日本に帰らなきゃならなかったからな。連れて出られるような時代でもなかったし…」
伊達の目が空中を泳いでいる。
「そのターニャは元気で暮しているよ」
「良いだんなに恵まれていれば良いんだが…」
伊達の言葉がすべて感傷的な響きを持ってきている。
伊達はいぶかしげにセルゲェを見つめた。
「ずっと前だが、ホルムスクのヘリポートで吹き付ける吹雪の中を二人で体を温めあいながら過ごしたセルゲェといえば思い出してもらえるか」
「おお、セルゲェ。あのセルゲェか」
「思い出してくれたか。ガスパジーン カタクラ、事情があってある機関がサハリンを訪問中の日本人を探している。国境警備隊は何もしていない外国人を事件に巻き込みたくない。そこで貴方を保護下に置き、出来れば明日の定期船で日本に出国してもらおうと考えている。その件を了解してくれるか」
「それはありがたい申し出です。私は日本のカメラマンですが母親が急病になったと言う知らせがあったのでホルムスクからタクシーをとばしてコルサコフに向かう途中でした。明日の定期船に乗れればそれに越したことはありません」
「ご了解いただけて嬉しく思います。暫く待っていてください」
そういうと隊長は司令官のところに戻った。
「カタクラは我々も申し出を了解した。これからユージノサハリンスクに戻り明日の朝コルサコフに車で送り、そのまま定期船に乗せる。ユージノの滞在先だがホテルは国家保安局が見張っているだろうから俺の家に友人として泊める。保安局の人間が近づくと面倒だから一晩我が家の周りに警備の兵を配置してくれ。それと明日の朝のヘリを含む出動の用意を頼む」
「分かりました。ではそのように手配します」
国境警備隊隊長の家
国境警備隊隊長セルゲェに家に着いたときには周囲は物々しい警戒振りになっていた。家の前の車の中でセルゲェは伊達に向かってにこやかに笑いながら、
「昔サハリンホテルのフロントにいたターニャを覚えているか」
と突然聞いた。
「えっ、ターニャ。あのチョルナヤ モーリェの観光地のソチから来た女の子か」
伊達は何故か動揺しながら答えた。
「ずいぶん親しかったそうじゃないか」
「あぁ、あの頃は…。でも日本に帰らなきゃならなかったからな。連れて出られるような時代でもなかったし…」
伊達の目が空中を泳いでいる。
「そのターニャは元気で暮しているよ」
「良いだんなに恵まれていれば良いんだが…」
伊達の言葉がすべて感傷的な響きを持ってきている。
2009年12月16日水曜日
オホーツクの鯱
セルゲェの家
リリーン、リリーン。居間に置いた電話がけたたましい音を立てる。毛糸の靴下を履いた女性がソファから立ち上がり受話器をとる。
「ダ、ダー」
「ターニャ、ダー(ターニャか)」
「ダー(そうよ)、仕事中の電話なんてどうしたの、珍しいじゃないの」
「大事な話があるんだ。今晩客を一人泊めてもいいか」
「いいけど、お友達でもモスクワから来たの。それで食事は」
「ウン、食事を頼む。うんと良いものを用意してくれるかな」
「いいけど誰なの。私の知っている人」
「ああ、君も良く知っている人だ」
「じらさないで教えて。ねぇ、誰なの」
「ガスパジーン ダテ」
「ダテ?」
「そうだ。伊達さんだ。でも伊達と呼んではいけない、今はカタクラだ。忘れないで」
「でもその名前は二度と口にしないと約束したのに」
「俺もそのつもりだったが、本人が今サハリンにいるんだ」
「でも何故」
「詳しい事情はいえないが、今我々が保護している。明日の定期船で日本に帰す。無事に帰したいんだ。そのために今晩うちに泊める。協力してくれないか」
「分かったわ。でもアーニャには」
「二人の友人と言うことにして置こう」
電話を切ったとたんターニャはソファに座り込んだ。そして泣き始めた。そして何時までも泣いていた。
再びコルサコフ街道
ユージノサハリンスクのほうから数台の国境警備隊の車が到着した。中から隊長が降り立ち、司令官とちょっと話をした後司令官は後ろに下がり、隊長がダテに近づいてきた。
「決して大きな声を出さないでください」
「えっ」
ダテは何のことか理解できずに隊長のほうを見た。
「ずいぶん久しぶりだね、伊達さん」
ダテ、と呼ばれて伊達は驚いた。そして警戒した。カタクラという名前以外は使っていないし、伊達と言う名前が判るわけがないからだ。伊達は、何のことか分からないと言う態度をとった。
リリーン、リリーン。居間に置いた電話がけたたましい音を立てる。毛糸の靴下を履いた女性がソファから立ち上がり受話器をとる。
「ダ、ダー」
「ターニャ、ダー(ターニャか)」
「ダー(そうよ)、仕事中の電話なんてどうしたの、珍しいじゃないの」
「大事な話があるんだ。今晩客を一人泊めてもいいか」
「いいけど、お友達でもモスクワから来たの。それで食事は」
「ウン、食事を頼む。うんと良いものを用意してくれるかな」
「いいけど誰なの。私の知っている人」
「ああ、君も良く知っている人だ」
「じらさないで教えて。ねぇ、誰なの」
「ガスパジーン ダテ」
「ダテ?」
「そうだ。伊達さんだ。でも伊達と呼んではいけない、今はカタクラだ。忘れないで」
「でもその名前は二度と口にしないと約束したのに」
「俺もそのつもりだったが、本人が今サハリンにいるんだ」
「でも何故」
「詳しい事情はいえないが、今我々が保護している。明日の定期船で日本に帰す。無事に帰したいんだ。そのために今晩うちに泊める。協力してくれないか」
「分かったわ。でもアーニャには」
「二人の友人と言うことにして置こう」
電話を切ったとたんターニャはソファに座り込んだ。そして泣き始めた。そして何時までも泣いていた。
再びコルサコフ街道
ユージノサハリンスクのほうから数台の国境警備隊の車が到着した。中から隊長が降り立ち、司令官とちょっと話をした後司令官は後ろに下がり、隊長がダテに近づいてきた。
「決して大きな声を出さないでください」
「えっ」
ダテは何のことか理解できずに隊長のほうを見た。
「ずいぶん久しぶりだね、伊達さん」
ダテ、と呼ばれて伊達は驚いた。そして警戒した。カタクラという名前以外は使っていないし、伊達と言う名前が判るわけがないからだ。伊達は、何のことか分からないと言う態度をとった。
2009年12月15日火曜日
オホーツクの鯱
「手遅れだ。もう戻れねぇ。ここでUターンしたらもっとひどいことになる」
「仕方ないだろう。何も悪いことはしていないんだからまっすぐ行こう」
そういった伊達だが、心の中ではまずいことになったと思っていた。それでもたった一人のところを捕まれば何をされるか分からないが、運転手が見ているのだから外国人をむちゃくちゃに取り扱うこともないだろうとも思った。
近づくに連れ、普通の検問でないことは直ぐに明らかになった。警察が使わない、機銃つき装甲車両までがあるし、並んでいる車も警察のものではない。
「旦那、これは国境警備隊の検問だ」
見れば街道を封鎖している数台の車の陰から銃口がこちらに向いている。
「旦那、手を前のシートの上に載せておくことだ。手を見えないところに置くと何も言わずにあいつらは撃ってくるぞ」
「分かった」
伊達は前の座席の上に両手を載せた。タクシーが停まった。検問の十メートルほど手前である。
国境警備隊の車は位置を変え、タクシーを取り囲むように移動した。中から指揮官が出てきて、
「運転手、一人で車から出て来い」
とハンドスピーカーで言った。サーシャが車を出た。両手を挙げたまま指揮官に近づく。指揮官が質問し、サーシャが答えている。様子は見えるが会話の内容は聞き取れない。しかし内容の推定は出来た。
「ガスパジーン カタクラ、車を降りてこちらに来てください」
と、指揮官は車に向かって声をかけてきた。
伊達は車を降りた、そして指揮官のほうに歩いた。
「ガスパジーン カタクラ、ガバリエチェ パルースキー(片倉さん、ロシア語が話せますか)
三十代後半の筋肉質の指揮官が丁寧に話しかけた。
「ダー、ノ トーリカ ニェムノーシカ(ええ、話せますが、でもほんの少しだけですよ)」
「ハラショ。我々は外国人の貴方に危害を加えるつもりはありません。ただ事情があって貴方を保護しなければなりません。無事に国外に出るまで我々の管理下にいてください。決して無断で逃げようとしないでください。無事は保証します。現在国境警備隊の隊長がここに向かっていますので暫く待っていてください」
「ポーニャル(分かりました)」
伊達はそう返事をした。そう言う以外の選択はないように思われたからだ。初冬の風が冷たく吹き抜ける。手袋をしていない伊達の手が冷たくなっていた。
「仕方ないだろう。何も悪いことはしていないんだからまっすぐ行こう」
そういった伊達だが、心の中ではまずいことになったと思っていた。それでもたった一人のところを捕まれば何をされるか分からないが、運転手が見ているのだから外国人をむちゃくちゃに取り扱うこともないだろうとも思った。
近づくに連れ、普通の検問でないことは直ぐに明らかになった。警察が使わない、機銃つき装甲車両までがあるし、並んでいる車も警察のものではない。
「旦那、これは国境警備隊の検問だ」
見れば街道を封鎖している数台の車の陰から銃口がこちらに向いている。
「旦那、手を前のシートの上に載せておくことだ。手を見えないところに置くと何も言わずにあいつらは撃ってくるぞ」
「分かった」
伊達は前の座席の上に両手を載せた。タクシーが停まった。検問の十メートルほど手前である。
国境警備隊の車は位置を変え、タクシーを取り囲むように移動した。中から指揮官が出てきて、
「運転手、一人で車から出て来い」
とハンドスピーカーで言った。サーシャが車を出た。両手を挙げたまま指揮官に近づく。指揮官が質問し、サーシャが答えている。様子は見えるが会話の内容は聞き取れない。しかし内容の推定は出来た。
「ガスパジーン カタクラ、車を降りてこちらに来てください」
と、指揮官は車に向かって声をかけてきた。
伊達は車を降りた、そして指揮官のほうに歩いた。
「ガスパジーン カタクラ、ガバリエチェ パルースキー(片倉さん、ロシア語が話せますか)
三十代後半の筋肉質の指揮官が丁寧に話しかけた。
「ダー、ノ トーリカ ニェムノーシカ(ええ、話せますが、でもほんの少しだけですよ)」
「ハラショ。我々は外国人の貴方に危害を加えるつもりはありません。ただ事情があって貴方を保護しなければなりません。無事に国外に出るまで我々の管理下にいてください。決して無断で逃げようとしないでください。無事は保証します。現在国境警備隊の隊長がここに向かっていますので暫く待っていてください」
「ポーニャル(分かりました)」
伊達はそう返事をした。そう言う以外の選択はないように思われたからだ。初冬の風が冷たく吹き抜ける。手袋をしていない伊達の手が冷たくなっていた。
2009年12月14日月曜日
オホーツクの鯱
「は」
と返事をしたものの、何故隊長がそんなに大掛かりなことをさせるのか副官には理解できなかった。
ともかく国境警備隊は全組織を挙げてカタクラ、すなわち伊達の追跡を始めたのである。
隊長の何時にない強い指示が出たこともあり、国境警備隊はホルムスクとユージノサハリンスクで強力な聞き込みを行い、朝早くホルムスクからタクシーでそれらしき日本人がユージノサハリンスクに向かったことが分かった。続いてユージノサハリンスクの南のレストランでそれらしき男が食事をし、タクシーで南に向かったとの情報が入った。
直ちにヘリが出動し、コルサコフ街道を走るホルムスクのタクシーを発見した。コルサコフ側とユージノサハリンスク側とから国境警備隊の部隊がフルスピードでタクシーの捕捉に走った。
コルサコフ街道
ガードレールも何もない林の中の真っ直ぐに伸びるコルサコフ街道を伊達を乗せたタクシーは走っている。両側の林の木には既に葉はなく、黒い枝のシルエットの向こうに薄い青の空が広がっていた。
「あと20キロくらいじゃないかな。もう直ぐ目的地のコルサコフさ」
運転手のサーシャが話すこともなくなって静かだった車内で突然言った。
「そうか、もう直ぐだな」
伊達はそう答えたが、心の中ではコルサコフで上手く稚内行きの船に乗れるかを考えていた。
突然、バリバリバリバリと音がした。サーシャがフロントガラス越しに空をのぞきあげている。
「ヘリだ!それも武装ヘリだ。俺たちの上を越えて前に行った。コルサコフに軍の基地があるからそこに帰るのかな。しかし変だな、街道の上を飛ぶなんて」
つぶやきながらサーシャが伊達を振り返って見た。
「サーシャ、今のヘリが大きくターンしたぞ。なんだかこのタクシーを監視しているようだぞ」
「何だって、俺は何も監視されるようなことをしていないぞ。旦那もそうだろう。しかし何かと言うと大げさにだれかれ構わずに捕まえて尋問するやり方はソ連時代よりひどくなったかもしれないくらいだから…」
狙われているのは俺だ、と伊達は思っていた。
「そういえば対向車が一台も通らなくなったのも変だな。この先の何処かで検問をしているに違いない。旦那、気持ち悪いから引き換えして別の道を行こうか」
「別の道を知っているのか」
「ああ、ちょっと戻って海沿いの道からコルサコフに行く方法もあるぜ」
「じゃあ、そうしようか。うっ、前方に検問が見える。もう手遅れじゃないか」
と返事をしたものの、何故隊長がそんなに大掛かりなことをさせるのか副官には理解できなかった。
ともかく国境警備隊は全組織を挙げてカタクラ、すなわち伊達の追跡を始めたのである。
隊長の何時にない強い指示が出たこともあり、国境警備隊はホルムスクとユージノサハリンスクで強力な聞き込みを行い、朝早くホルムスクからタクシーでそれらしき日本人がユージノサハリンスクに向かったことが分かった。続いてユージノサハリンスクの南のレストランでそれらしき男が食事をし、タクシーで南に向かったとの情報が入った。
直ちにヘリが出動し、コルサコフ街道を走るホルムスクのタクシーを発見した。コルサコフ側とユージノサハリンスク側とから国境警備隊の部隊がフルスピードでタクシーの捕捉に走った。
コルサコフ街道
ガードレールも何もない林の中の真っ直ぐに伸びるコルサコフ街道を伊達を乗せたタクシーは走っている。両側の林の木には既に葉はなく、黒い枝のシルエットの向こうに薄い青の空が広がっていた。
「あと20キロくらいじゃないかな。もう直ぐ目的地のコルサコフさ」
運転手のサーシャが話すこともなくなって静かだった車内で突然言った。
「そうか、もう直ぐだな」
伊達はそう答えたが、心の中ではコルサコフで上手く稚内行きの船に乗れるかを考えていた。
突然、バリバリバリバリと音がした。サーシャがフロントガラス越しに空をのぞきあげている。
「ヘリだ!それも武装ヘリだ。俺たちの上を越えて前に行った。コルサコフに軍の基地があるからそこに帰るのかな。しかし変だな、街道の上を飛ぶなんて」
つぶやきながらサーシャが伊達を振り返って見た。
「サーシャ、今のヘリが大きくターンしたぞ。なんだかこのタクシーを監視しているようだぞ」
「何だって、俺は何も監視されるようなことをしていないぞ。旦那もそうだろう。しかし何かと言うと大げさにだれかれ構わずに捕まえて尋問するやり方はソ連時代よりひどくなったかもしれないくらいだから…」
狙われているのは俺だ、と伊達は思っていた。
「そういえば対向車が一台も通らなくなったのも変だな。この先の何処かで検問をしているに違いない。旦那、気持ち悪いから引き換えして別の道を行こうか」
「別の道を知っているのか」
「ああ、ちょっと戻って海沿いの道からコルサコフに行く方法もあるぜ」
「じゃあ、そうしようか。うっ、前方に検問が見える。もう手遅れじゃないか」
2009年12月13日日曜日
オホーツクの鯱
…アドレスが同じだ。まさか、カタクラが彼か。もしそうならどうする。どうするべきだ。彼がコズロフスキーを殺しに、そんな馬鹿なことがあるか。しかし、そうだったら…
セルゲェは考え込んでいた。…とにかく写真を見なくては。月日がたったとはいえ写真を見れば見分けがつくだろう。でもそうだったら…
リリーン、リリーンと電話が鳴った。
「ダ、ダー」
「副官が、写真が手に入ったので至急お願いしたいといっています」
秘書からの電話に、
「直ぐ部屋に持ってこさせてくれ」
とセルゲェは答えた。
二分ほどしてドアがノックされた。ダーという答えを待って副官が飛び込んできた。
「写真は」
「これです」
副官はコンピューターからプリントしたばかりのA4サイズの写真をセルゲェに手渡した。
セルゲェは恐る恐る見た。そこには忘れもしない友の顔が写っていた。あの猛烈な吹雪の中を二人で体を寄せ合ってしのいだ時のことなど急に思い出された。
…いかん、彼を捕まえさせてはいかんのだ…
「ご苦労。それで国家保安局はどう動いている」
「理由も何も関係なく、見つけ次第逮捕するべく緊急手配に入ったようです」
「まだ何もしていないじゃないか、この男は」
「ですから、理由など後から付けるということではないでしょうか」
「あいつらのやり方は全くどうしようもないな」
セルゲェは威厳を取り直してきた。
「いいか、我々は国境警備隊だ。おかしな者を国内に入れないのが第一の勤めだ。この男、カタクラは怪しいところもあるがまだ何も悪いことをしていない。それを捕まえて領事館だの大使館だのが出てくると厄介なことになる。そうだろ」
「はい」
「国家保安局が先にこの男を捕まえたりすれば、当然過剰な対応をしたと国際的な非難をされる。だから、国家保安局より先に探し出せ。俺が、この男に話して速やかに出国するようにさせる。良いか。このサハリン州内で面倒を起こさせるな。我々国境警備隊の落ち度になるのだからな。とにかく探せ。見つけ出せ。そして手を出すな。俺が直ぐに駆けつけるから。全部隊に指示を至急出せ」
「分かりました」
「それから俺が出動するときのために一個中隊を待機させよ。機関銃座つきの装甲車を警備のために容易しろ。攻撃ヘリも待機させて置け」
セルゲェは考え込んでいた。…とにかく写真を見なくては。月日がたったとはいえ写真を見れば見分けがつくだろう。でもそうだったら…
リリーン、リリーンと電話が鳴った。
「ダ、ダー」
「副官が、写真が手に入ったので至急お願いしたいといっています」
秘書からの電話に、
「直ぐ部屋に持ってこさせてくれ」
とセルゲェは答えた。
二分ほどしてドアがノックされた。ダーという答えを待って副官が飛び込んできた。
「写真は」
「これです」
副官はコンピューターからプリントしたばかりのA4サイズの写真をセルゲェに手渡した。
セルゲェは恐る恐る見た。そこには忘れもしない友の顔が写っていた。あの猛烈な吹雪の中を二人で体を寄せ合ってしのいだ時のことなど急に思い出された。
…いかん、彼を捕まえさせてはいかんのだ…
「ご苦労。それで国家保安局はどう動いている」
「理由も何も関係なく、見つけ次第逮捕するべく緊急手配に入ったようです」
「まだ何もしていないじゃないか、この男は」
「ですから、理由など後から付けるということではないでしょうか」
「あいつらのやり方は全くどうしようもないな」
セルゲェは威厳を取り直してきた。
「いいか、我々は国境警備隊だ。おかしな者を国内に入れないのが第一の勤めだ。この男、カタクラは怪しいところもあるがまだ何も悪いことをしていない。それを捕まえて領事館だの大使館だのが出てくると厄介なことになる。そうだろ」
「はい」
「国家保安局が先にこの男を捕まえたりすれば、当然過剰な対応をしたと国際的な非難をされる。だから、国家保安局より先に探し出せ。俺が、この男に話して速やかに出国するようにさせる。良いか。このサハリン州内で面倒を起こさせるな。我々国境警備隊の落ち度になるのだからな。とにかく探せ。見つけ出せ。そして手を出すな。俺が直ぐに駆けつけるから。全部隊に指示を至急出せ」
「分かりました」
「それから俺が出動するときのために一個中隊を待機させよ。機関銃座つきの装甲車を警備のために容易しろ。攻撃ヘリも待機させて置け」
2009年12月12日土曜日
オホーツクの鯱
その時、係員の一人がプリントアウトを持って副官のところに走ってきた。手渡された資料を二三行読んだ副官は咳こむように言った。
「隊長。重要な情報が国家保安局のほうから入ってきました」
「何だ、言ってみろ」
「ハバロフスクで朝鮮人名の偽パスポートを作った日本人らしいものがいるとのことです」
「さっきのカタクラはそのカタクラというパスポートでホテルに泊まり、鉄道の切符を買ったのだろう。違う日本人じゃないのか」
「そうかもしれませんが、ハバロフスクでパスポートを作った日本人はユージノサハリンスクの手配屋を紹介してもらっていたようです」
「その手配屋を調べろ。そしてホルムスクで見つかったゴムボートなどがそこで手配したものか至急調査しろ」
「はい」
「日本人が二人いるのかもしれないが、そのカタクラという日本人の写真は手に入らないか」
「偽パスポートをつくったのですからハバロフスクにはあるでしょう。国家保安局に提供を要請してみます」
「サハリンホテルに泊まったのならカタクラの住所が残っているだろう」
「それならもう調べてあります。えーと」
副官は資料をめくった。
「住所がありました。本当のことを書いているかどうかは別ですが、東京都武蔵野市吉祥寺北町3丁目、となっています」
聞いていたセルゲェの顔つきが険しくなった。
「もう一度ゆっくり言え」
「は、トウキョウト ムサシノシ キチジョウジキタマチ サンチョウメ」
「分かった。写真が届いたら直ぐ部屋に持ってくるように」
セルゲェは深刻な顔をして自分の部屋に戻った。秘書がサモワール(ロシア式湯沸かし器)の湯をポットに注いで新しいお茶を入れ、セルゲェの机に運んできた。尻に張り付いたかのような黒のタイトレザースカートがセクシーだ。
「暫く誰も部屋に入れないように」
セルゲェの指示に、作り笑いを浮かべながら、
「ハラショ」
と秘書は言った。
セルゲェは机の引き出しの中から古いファイルを取り出した。そしてファイルの中から「ソビエトスコーヤポンスコ コミッティエータ(ソ日共同委員会)」と書かれた資料を抜き出して覗き込んで、さらに眉間にしわを寄せた。
「隊長。重要な情報が国家保安局のほうから入ってきました」
「何だ、言ってみろ」
「ハバロフスクで朝鮮人名の偽パスポートを作った日本人らしいものがいるとのことです」
「さっきのカタクラはそのカタクラというパスポートでホテルに泊まり、鉄道の切符を買ったのだろう。違う日本人じゃないのか」
「そうかもしれませんが、ハバロフスクでパスポートを作った日本人はユージノサハリンスクの手配屋を紹介してもらっていたようです」
「その手配屋を調べろ。そしてホルムスクで見つかったゴムボートなどがそこで手配したものか至急調査しろ」
「はい」
「日本人が二人いるのかもしれないが、そのカタクラという日本人の写真は手に入らないか」
「偽パスポートをつくったのですからハバロフスクにはあるでしょう。国家保安局に提供を要請してみます」
「サハリンホテルに泊まったのならカタクラの住所が残っているだろう」
「それならもう調べてあります。えーと」
副官は資料をめくった。
「住所がありました。本当のことを書いているかどうかは別ですが、東京都武蔵野市吉祥寺北町3丁目、となっています」
聞いていたセルゲェの顔つきが険しくなった。
「もう一度ゆっくり言え」
「は、トウキョウト ムサシノシ キチジョウジキタマチ サンチョウメ」
「分かった。写真が届いたら直ぐ部屋に持ってくるように」
セルゲェは深刻な顔をして自分の部屋に戻った。秘書がサモワール(ロシア式湯沸かし器)の湯をポットに注いで新しいお茶を入れ、セルゲェの机に運んできた。尻に張り付いたかのような黒のタイトレザースカートがセクシーだ。
「暫く誰も部屋に入れないように」
セルゲェの指示に、作り笑いを浮かべながら、
「ハラショ」
と秘書は言った。
セルゲェは机の引き出しの中から古いファイルを取り出した。そしてファイルの中から「ソビエトスコーヤポンスコ コミッティエータ(ソ日共同委員会)」と書かれた資料を抜き出して覗き込んで、さらに眉間にしわを寄せた。
2009年12月11日金曜日
オホーツクの鯱
「ゴムボートもウェットスーツもスピアガンも海で何かを取るなら使用が考えられますが火薬発射式の銛撃ち銃はトド撃ちにでも行かない限り使うことはないでしょうし、そのトド撃ちも禁止されているので」
「しかし、火薬発射式銛撃ち銃でコズロフスキーの命を狙ったと言うのか。それは考えにくいのではないか」
「その通りですが、ホルムスクの漁師などに当たってもそれらの持ち主がいないのです。しかもそれらはすべて新品ですし、漁師たちもそこにそんなものが置いてあるのを知らなかった。つまりごく最近岩陰に置かれたと見てよいのです」
「それで、誰かコズロフスキーを狙いそうなものがいたのか」
「外国人が一人この時期にホルムスクを訪れています」
「それで、その外国人がコズロフスキーを狙いそうなのかね」
セルゲェは半分呆れたような言い方をした。そしてため息を混ぜながら続けた。
「どんな外国人なんだ。そして何をしているんだ」
副官は後ろに控えている部下からファイルを受け取ると、
「ショーン カタクラという日本人が入国しています。カメラマンと言う話です。ハバロフスクに先週入国し、足掛け3日ほど滞在したあとでユージノサハリンスクに来ました。ホテルサハリンに一泊したあと荷物をホテルに預けて鉄道でホルムスクの先、カメンスカヤで降りています。ホルムスクの新ジェッティ完成式典の二日前のことです」
「それだけでは何もおかしいところはないじゃないか。それで今は何処にいるか足取りはつかめているのか」
「いえ、それ以降の足取りはまだわかっていませんが少なくともホルムスクのホテルには宿泊した形跡はありません」
「分かった念のために探し出せ。ただし、見つかったからといって接触するな。見つけたら監視を続けながら詳しく連絡させろ」
「はっ」
「それから、コズロフスキーは今何処にいる」
「現在はオハに滞在中です」
「周辺を警戒しろ。それにオハ行きの飛行機の搭乗者をチェックすること」
「飛行機の搭乗者については昨日からチェックしています」
副官が得意げに言った。
「カーゴ用の飛行機も調べているか」
「いえ」
「馬鹿者。もしも見つからずにオハに行こうとすれば定期便などに乗るわけがなかろう。カーゴ機の荷物室を必ず点検しろ。ジャガイモの山の中に潜んでいることだってあるかも知れん」
「は、そのように指示します」
「しかし、火薬発射式銛撃ち銃でコズロフスキーの命を狙ったと言うのか。それは考えにくいのではないか」
「その通りですが、ホルムスクの漁師などに当たってもそれらの持ち主がいないのです。しかもそれらはすべて新品ですし、漁師たちもそこにそんなものが置いてあるのを知らなかった。つまりごく最近岩陰に置かれたと見てよいのです」
「それで、誰かコズロフスキーを狙いそうなものがいたのか」
「外国人が一人この時期にホルムスクを訪れています」
「それで、その外国人がコズロフスキーを狙いそうなのかね」
セルゲェは半分呆れたような言い方をした。そしてため息を混ぜながら続けた。
「どんな外国人なんだ。そして何をしているんだ」
副官は後ろに控えている部下からファイルを受け取ると、
「ショーン カタクラという日本人が入国しています。カメラマンと言う話です。ハバロフスクに先週入国し、足掛け3日ほど滞在したあとでユージノサハリンスクに来ました。ホテルサハリンに一泊したあと荷物をホテルに預けて鉄道でホルムスクの先、カメンスカヤで降りています。ホルムスクの新ジェッティ完成式典の二日前のことです」
「それだけでは何もおかしいところはないじゃないか。それで今は何処にいるか足取りはつかめているのか」
「いえ、それ以降の足取りはまだわかっていませんが少なくともホルムスクのホテルには宿泊した形跡はありません」
「分かった念のために探し出せ。ただし、見つかったからといって接触するな。見つけたら監視を続けながら詳しく連絡させろ」
「はっ」
「それから、コズロフスキーは今何処にいる」
「現在はオハに滞在中です」
「周辺を警戒しろ。それにオハ行きの飛行機の搭乗者をチェックすること」
「飛行機の搭乗者については昨日からチェックしています」
副官が得意げに言った。
「カーゴ用の飛行機も調べているか」
「いえ」
「馬鹿者。もしも見つからずにオハに行こうとすれば定期便などに乗るわけがなかろう。カーゴ機の荷物室を必ず点検しろ。ジャガイモの山の中に潜んでいることだってあるかも知れん」
「は、そのように指示します」
2009年12月10日木曜日
オホーツクの鯱
「明確には分かりません。しかし、コズロフスキーはその動きを察知し、狙われていると思ったホルムスクでの新ジェッティ完成記念式典への参加を取りやめています」
「コズロフスキーはどうやって狙われていることを知ったんだ。我々も国家保安局もつかんでいないのに」
つまらないことで国境警備隊を動かすのが馬鹿らしいと思っている様子がありありだった。
「コズロフスキーはソ連時代から多くの人を讒言などでシベリアに送り込んできました。政敵以外にも多くの敵を持っています。そのために元々注意を払っていたのですが、今回自殺したセミョーノフは今までにない大物で、しかも大金持ちです。殺し屋を雇っての復讐があるかもしれないとセミョーノフ一族の、特に娘と婿養子の行動に気をつけていたようです。国家保安局みたいに盗聴までしたとのことです」
「それで何か証拠でも掴んだのか」
「明確な証拠までは…。ただ婿養子が、ホルムスクの式のことは連絡しておいたから、と娘に言ったようです」
「それだけか」
「娘が会話を止めたらしく、そのあとは話題が急に変わったとか。セミョーノヴァがかなり警戒しているのが逆に真実味を感じさせるのです」
「それだけでコズロフスキーは出席を取りやめたのか」
「そのようです」
「よほど狙われて当然と思うことをしたんだな。それでホルムスクの式典は無事に終わったのか。それとも何か怪しいことでもあったのか」
「式典はスケジュールどおりに進行しました。何の妨害もありませんでした」
「結果的に心配しすぎたということか」
セルゲェの顔には、もういい加減に止めようという気持ちが出ている。
「ところが念のため海岸付近を捜索していましたら不審な物が発見されました」
「不審な物」
「ホルムスクの1キロほど南の海岸の岩陰の窪みにゴムボートが隠してあったのです」
「タタールの海は荒れる。ゴムボートを岩陰に隠すのは誰でもすることではないか」
「いや、それ以外に潜水用具、ウェットスーツ、腰につける錘、スピアガン、それに火薬発射式の銛撃ち銃がありました」
「?」
セルゲェは額にしわを寄せ、俯きながらあごに手を当てて何かを考えている。一分程の沈黙の後セルゲェが聞いた。
「この時期に使うようなものかそれらは」
「コズロフスキーはどうやって狙われていることを知ったんだ。我々も国家保安局もつかんでいないのに」
つまらないことで国境警備隊を動かすのが馬鹿らしいと思っている様子がありありだった。
「コズロフスキーはソ連時代から多くの人を讒言などでシベリアに送り込んできました。政敵以外にも多くの敵を持っています。そのために元々注意を払っていたのですが、今回自殺したセミョーノフは今までにない大物で、しかも大金持ちです。殺し屋を雇っての復讐があるかもしれないとセミョーノフ一族の、特に娘と婿養子の行動に気をつけていたようです。国家保安局みたいに盗聴までしたとのことです」
「それで何か証拠でも掴んだのか」
「明確な証拠までは…。ただ婿養子が、ホルムスクの式のことは連絡しておいたから、と娘に言ったようです」
「それだけか」
「娘が会話を止めたらしく、そのあとは話題が急に変わったとか。セミョーノヴァがかなり警戒しているのが逆に真実味を感じさせるのです」
「それだけでコズロフスキーは出席を取りやめたのか」
「そのようです」
「よほど狙われて当然と思うことをしたんだな。それでホルムスクの式典は無事に終わったのか。それとも何か怪しいことでもあったのか」
「式典はスケジュールどおりに進行しました。何の妨害もありませんでした」
「結果的に心配しすぎたということか」
セルゲェの顔には、もういい加減に止めようという気持ちが出ている。
「ところが念のため海岸付近を捜索していましたら不審な物が発見されました」
「不審な物」
「ホルムスクの1キロほど南の海岸の岩陰の窪みにゴムボートが隠してあったのです」
「タタールの海は荒れる。ゴムボートを岩陰に隠すのは誰でもすることではないか」
「いや、それ以外に潜水用具、ウェットスーツ、腰につける錘、スピアガン、それに火薬発射式の銛撃ち銃がありました」
「?」
セルゲェは額にしわを寄せ、俯きながらあごに手を当てて何かを考えている。一分程の沈黙の後セルゲェが聞いた。
「この時期に使うようなものかそれらは」
2009年12月9日水曜日
オホーツクの鯱
「そうだ、まだ名前を聞いていなかった。カーク バス ザブート(名前は何て言うんだ)」
「俺か。サーシャさ」
アントリコットが来た。ロシア特産(?)の堅い牛肉を叩いてやわらかくしたものをステーキにし、その上に目玉焼きを載せた料理だ。
叩き潰して繊維が破壊されているためかステーキの表面はざらざらだ。一切れ口にするが脂っ気が何にもなく、ぱさぱさで味もない。上に載った目玉焼きをナイフの先で崩し、ステーキ全体に伸ばして肉に味をつけて食べる。これがロシアでは結構高級な料理なのだ。
食べ終わった伊達はトイレに入った。レストランの奥の二重のドアの向こうのトイレは寒かった。トイレの便座はない。簡単に取り外せるものは瞬く間に持ち去られるのがこの国では普通なのだ。その原因には慢性的な物資の不足がある。壊れた便座を交換しようにも店においていないことのほうが多い。自動車でも一晩道端に放置すれば、タイヤがなくなるなどは序の口で社内のラジオ等まで徹底的に持ち去られるのが日常である。
トイレットペーパーはついていない、と言うより、用便に用いられた紙は流さずにすぐ脇に置いた針金を編んでつくったような屑篭にそのまま入れられている。当然だが匂いがひどい。そこらにある紙を適当に用便に使うものだから流そうものならすぐにトイレそのものが詰まってしまう。物資の不足は紙の処理法にまで影響を与えている。夏ならば、この使用後の紙にハエが群がり、そのハエがレストランの中を飛び交うと言うことになる。
すっきりした伊達はサーシャと共に南へ走り出した。
ユージノサハリンスクの国境警備隊指揮所
左側の壁にはロシア全体の地図があり、正面にはこのユージノサハリンスクの指揮所が管轄している、サハリンおよびキューリル諸島(千島列島)の大きな地図がある。そして地図には国境警備隊の艦船やヘリ等の所在状況が明示されている。全体が大きなコンピューター画面といってよい。画面の前には楕円形の会議用テーブルがありその手前には状況分析係官の机が並び、どの机にもコンピューターが載っていて時々刻々の情報などを示している。
「コズロフスキー州知事が狙われていると言うのは本当の話か」
薄いブルーの軍服を着た、それも肩に金色の階級マークを幾つも付けた男が大きな声で言った。この男がサハリン州国境警備隊の隊長、セルゲェである。四十代後半であろうか髪にグレイヘアが混じっている。
「土建会社のセミューノフが自殺したことはご存知ですね。彼が何故自殺せざるを得なくなったかもご承知ですね」
副官が直立してセルゲェに言った。
「分かっている。コズロフスキーがそうなるまで追い込んだからだろう。君はセミョーノフの一族が恨んでコズロフスキーを狙っているとでも言うのか」
「俺か。サーシャさ」
アントリコットが来た。ロシア特産(?)の堅い牛肉を叩いてやわらかくしたものをステーキにし、その上に目玉焼きを載せた料理だ。
叩き潰して繊維が破壊されているためかステーキの表面はざらざらだ。一切れ口にするが脂っ気が何にもなく、ぱさぱさで味もない。上に載った目玉焼きをナイフの先で崩し、ステーキ全体に伸ばして肉に味をつけて食べる。これがロシアでは結構高級な料理なのだ。
食べ終わった伊達はトイレに入った。レストランの奥の二重のドアの向こうのトイレは寒かった。トイレの便座はない。簡単に取り外せるものは瞬く間に持ち去られるのがこの国では普通なのだ。その原因には慢性的な物資の不足がある。壊れた便座を交換しようにも店においていないことのほうが多い。自動車でも一晩道端に放置すれば、タイヤがなくなるなどは序の口で社内のラジオ等まで徹底的に持ち去られるのが日常である。
トイレットペーパーはついていない、と言うより、用便に用いられた紙は流さずにすぐ脇に置いた針金を編んでつくったような屑篭にそのまま入れられている。当然だが匂いがひどい。そこらにある紙を適当に用便に使うものだから流そうものならすぐにトイレそのものが詰まってしまう。物資の不足は紙の処理法にまで影響を与えている。夏ならば、この使用後の紙にハエが群がり、そのハエがレストランの中を飛び交うと言うことになる。
すっきりした伊達はサーシャと共に南へ走り出した。
ユージノサハリンスクの国境警備隊指揮所
左側の壁にはロシア全体の地図があり、正面にはこのユージノサハリンスクの指揮所が管轄している、サハリンおよびキューリル諸島(千島列島)の大きな地図がある。そして地図には国境警備隊の艦船やヘリ等の所在状況が明示されている。全体が大きなコンピューター画面といってよい。画面の前には楕円形の会議用テーブルがありその手前には状況分析係官の机が並び、どの机にもコンピューターが載っていて時々刻々の情報などを示している。
「コズロフスキー州知事が狙われていると言うのは本当の話か」
薄いブルーの軍服を着た、それも肩に金色の階級マークを幾つも付けた男が大きな声で言った。この男がサハリン州国境警備隊の隊長、セルゲェである。四十代後半であろうか髪にグレイヘアが混じっている。
「土建会社のセミューノフが自殺したことはご存知ですね。彼が何故自殺せざるを得なくなったかもご承知ですね」
副官が直立してセルゲェに言った。
「分かっている。コズロフスキーがそうなるまで追い込んだからだろう。君はセミョーノフの一族が恨んでコズロフスキーを狙っているとでも言うのか」
2009年12月8日火曜日
オホーツクの鯱
ここで食事をしている間にこのタクシーを盗んで自分でコルサコフに向かおうかとも考えたが、無免許運転などと言う逮捕の口実を当局に与える方がまずいので、このまま運転手と一緒にコルサコフに向かうと決めた。それに焦ると運転手にも何かあると気取られる。急いではいるけれど、それは脱出のためではないと感じさせなければならないのだ。
「ここの今日のお勧めはボルシとアントリコットだと言っているが、それでいいか。もっとも、昨日も明日も同じメニューを勧める以外ないんだろうが、なんたってそれしか作っていないんだろうからな」
と、レストランの奥から戻ってきた運転手が聞いた。
「ああ、それでいい。上等じゃないか」
「それで、ピボ(ビール)でも飲むか。それともチャイ(紅茶)にしとくか」
「チャイにしとこう」
暫くしてボルシが運ばれてきた。運んできた中年をちょっとすぎた感じのロシア女性は肥満しきった体をゆすって歩いてきた。幅と厚みが同じくらい、つまりまん丸に近い断面を持つお腹だといったら分かりよいだろうか。靴を履こうにも足など見えないだろうと言う体型なのだ。
ボルシというのはロシアの伝統的スープである。ビーツが入っているのでスープ全体が赤い色をしている。ロシアの古い物語などではトロイカのそりで雪の中を帰ってきた人が黒パン(ライ麦パン)とボルシで夕食をとる場面が良く出てくる。日本では通常「ボルシチ」と呼ばれているが現地で聞くと「ボルシ」に聞こえる。ただ「し」の発音が強く、また「シュ」にやや近い。
伊達は運ばれてきた熱々のボルシを見てそのロシア女性に言った。
「ワズモージナ ベス スメタナ(スメタナ(サワークリーム)を抜いてもらえないだろうか)」
「ハラショ。イェスリ ニェ ハチーチェ(もしもスメタナがお嫌いならそうしますよ)」
二重あごを揺らしながら赤毛のロシア女性はそういうとキッチンに持ち帰っていった。
「スメタナが嫌いなのか。俺はスメタナがないとボルシが締まらないような気がするがな。で、何故嫌いなんだ」
と運転手が不思議そうに聞いた。
「いや、スメタナを食うと腹を壊すのさ」
「そんな経験があるとするとロシアに来たことが何回もあるようだな。それにそのロシア語、学校で覚えたロシア語じゃない。ロシア人の女と一緒に住んでたのか」
「ああ、昔ロシアで働いたことがあるんだよ。もうずいぶん昔のことだがね」
伊達があいまいに答えたとき、ロシア女性がスメタナ抜きのボルシを持ってきてテーブルに置いた。そして、
「プリヤートナーボ アペチータ(さあ召し上がれ:直訳は「素晴らしい食欲を」となる)」
と言った。
「スパシーバ」
伊達と運転手は同時に答えた。
「ここの今日のお勧めはボルシとアントリコットだと言っているが、それでいいか。もっとも、昨日も明日も同じメニューを勧める以外ないんだろうが、なんたってそれしか作っていないんだろうからな」
と、レストランの奥から戻ってきた運転手が聞いた。
「ああ、それでいい。上等じゃないか」
「それで、ピボ(ビール)でも飲むか。それともチャイ(紅茶)にしとくか」
「チャイにしとこう」
暫くしてボルシが運ばれてきた。運んできた中年をちょっとすぎた感じのロシア女性は肥満しきった体をゆすって歩いてきた。幅と厚みが同じくらい、つまりまん丸に近い断面を持つお腹だといったら分かりよいだろうか。靴を履こうにも足など見えないだろうと言う体型なのだ。
ボルシというのはロシアの伝統的スープである。ビーツが入っているのでスープ全体が赤い色をしている。ロシアの古い物語などではトロイカのそりで雪の中を帰ってきた人が黒パン(ライ麦パン)とボルシで夕食をとる場面が良く出てくる。日本では通常「ボルシチ」と呼ばれているが現地で聞くと「ボルシ」に聞こえる。ただ「し」の発音が強く、また「シュ」にやや近い。
伊達は運ばれてきた熱々のボルシを見てそのロシア女性に言った。
「ワズモージナ ベス スメタナ(スメタナ(サワークリーム)を抜いてもらえないだろうか)」
「ハラショ。イェスリ ニェ ハチーチェ(もしもスメタナがお嫌いならそうしますよ)」
二重あごを揺らしながら赤毛のロシア女性はそういうとキッチンに持ち帰っていった。
「スメタナが嫌いなのか。俺はスメタナがないとボルシが締まらないような気がするがな。で、何故嫌いなんだ」
と運転手が不思議そうに聞いた。
「いや、スメタナを食うと腹を壊すのさ」
「そんな経験があるとするとロシアに来たことが何回もあるようだな。それにそのロシア語、学校で覚えたロシア語じゃない。ロシア人の女と一緒に住んでたのか」
「ああ、昔ロシアで働いたことがあるんだよ。もうずいぶん昔のことだがね」
伊達があいまいに答えたとき、ロシア女性がスメタナ抜きのボルシを持ってきてテーブルに置いた。そして、
「プリヤートナーボ アペチータ(さあ召し上がれ:直訳は「素晴らしい食欲を」となる)」
と言った。
「スパシーバ」
伊達と運転手は同時に答えた。
2009年12月7日月曜日
オホーツクの鯱
「もう直ぐ空港に着くぞ。上手く飛行機の席があるといいな」
その声に前方右を見ると滑走路らしいものが見えてきた。それだけではない、滑走路の手前のフェンス付近に当局に車らしきものが見えるではないか。
手が回っている…、伊達はそう直感した。
「思いのほか時間がかかってしまったな。稚内行きの飛行機の時間を過ぎてしまっているようだな。日本の飛行機が停まっていないんだ」
「えっ、それじゃぁどうする」
「悪いがコルサコフまで行ってくれないか。稚内域の船があるし、ホテルも一杯あるだろうから」
伊達は、空港に行くのは捕まりに行くことになると判断した。捕まったとしても日本人であるので先ずは取調べだけだが、彼らは証拠を探し、いやでっち上げてでも逮捕しようとするだろう。
伊達の思考を中断させるように運転手が車をUターンさせた。
「コルサコフまで行くなら料金が上がるぜ。それに給油も必要だし、腹ごしらえもしなきゃ、そうそう走ってばかりいられない」
もっともな要求だ。
「金はもう百ドル出すがそれでどうだ」
「いいだろうと言いたいが、もう少し何とかならないか。これじゃあ今日中にホルムスクには帰れないから俺もコルサコフに泊まることになるんだぜ」
「分かった。じゃぁ、コルサコフでのホテル探しなんかの手伝いをするということでもう百ドル出そう」
「ハラショ。合計二百ドルの追加だな。先払いで頼むよ、なにも信用しないってわけじゃないんだが」
伊達は百ドル札二枚を財布から取り出すと前の座席に手を伸ばした。運転手は右手でそれを受け取ると、
「話が決まったら給油と休憩だ。落ち着けるように町外れにするか」
運転手はチラッと伊達を見てウィンクした。
どうやら、俺が急いで日本に脱出しようとしているのに気がついたようだな。そうでなければ、腹ごしらえや休憩はユージノサハリンスクの街中でするはずだ。伊達はだんだん追い詰められているのを感じていた。
ユージノサハリンスクの町の南端の街道沿いに小さなレストランがあった。ロシア語では「アール(R)」を「ピー(P)」で、「エス(S)」を「シー(C)」で書き表すのでローマ字的発音になれたものには「レストラン」と書いてあるのに「ペクトパン」と読めてしまう。
その声に前方右を見ると滑走路らしいものが見えてきた。それだけではない、滑走路の手前のフェンス付近に当局に車らしきものが見えるではないか。
手が回っている…、伊達はそう直感した。
「思いのほか時間がかかってしまったな。稚内行きの飛行機の時間を過ぎてしまっているようだな。日本の飛行機が停まっていないんだ」
「えっ、それじゃぁどうする」
「悪いがコルサコフまで行ってくれないか。稚内域の船があるし、ホテルも一杯あるだろうから」
伊達は、空港に行くのは捕まりに行くことになると判断した。捕まったとしても日本人であるので先ずは取調べだけだが、彼らは証拠を探し、いやでっち上げてでも逮捕しようとするだろう。
伊達の思考を中断させるように運転手が車をUターンさせた。
「コルサコフまで行くなら料金が上がるぜ。それに給油も必要だし、腹ごしらえもしなきゃ、そうそう走ってばかりいられない」
もっともな要求だ。
「金はもう百ドル出すがそれでどうだ」
「いいだろうと言いたいが、もう少し何とかならないか。これじゃあ今日中にホルムスクには帰れないから俺もコルサコフに泊まることになるんだぜ」
「分かった。じゃぁ、コルサコフでのホテル探しなんかの手伝いをするということでもう百ドル出そう」
「ハラショ。合計二百ドルの追加だな。先払いで頼むよ、なにも信用しないってわけじゃないんだが」
伊達は百ドル札二枚を財布から取り出すと前の座席に手を伸ばした。運転手は右手でそれを受け取ると、
「話が決まったら給油と休憩だ。落ち着けるように町外れにするか」
運転手はチラッと伊達を見てウィンクした。
どうやら、俺が急いで日本に脱出しようとしているのに気がついたようだな。そうでなければ、腹ごしらえや休憩はユージノサハリンスクの街中でするはずだ。伊達はだんだん追い詰められているのを感じていた。
ユージノサハリンスクの町の南端の街道沿いに小さなレストランがあった。ロシア語では「アール(R)」を「ピー(P)」で、「エス(S)」を「シー(C)」で書き表すのでローマ字的発音になれたものには「レストラン」と書いてあるのに「ペクトパン」と読めてしまう。
2009年12月6日日曜日
オホーツクの鯱
伊達は財布から百ドル紙幣を出してひらひらさせた。
「話は決まりだ。急ぐんだろ、すぐ向こうの二番目の車に乗れ」
金色の鷲の図柄が背中一杯に広がった黒の革ジャンを着た運転手は伊達の手から百ドル札を奪い取るとそう言って走り出した。
「パシリ(行こうぜ!)」
伊達も走ると、そのタクシーの後部座席に飛び込んだ。車がまるでジャンプするかのように急発進をした。
ホルムスクからユージノサハリンスクに向かう道は暫くして峠にさしかかる。この峠は第二次世界大戦での敗戦時に、日本人住民を守って撤退をしていた日本軍にソ連軍が一方的に攻撃をし、やむなく日本軍が応戦せざるを得なかった悲しい歴史の舞台となったところである。
「スカリェー、スカリェー、ブィストリェー(速く、速く、もっと速く)」
伊達が運転手に急げと命ずる。
「ハラショ、ニェート プロバレーマ(良し、任せとけ)」
と、運転手は車の性能限界までアクセルを踏み、ハンドルを操作し、ブレーキを踏んだ。砂塵を巻き上げ、カーブのたびに軋みながら、車は峠を越え、急カーブを右に左にと曲がり、ユージノサハリンスクへ向け、飛ばしに飛ばした。
「もうすぐユージノだぜ。ユージノの何処へ行けばいいんだ」
運転手が聞いてきた。
「そうだな、エアロポルト(空港)へ頼む」
本当はサハリンホテルのナターシャに預けておいた荷物を取りに行きたかったが、ひょっとしてホテルに当局のものが既に来ているかもしれない。荷物は捨てて空港に急ぐほうが得策と伊達は判断したのだった。
伊達の判断は正しかった。その時、サハリンホテルには内務警察の数人が到着、フロントで伊達の荷物を受け取り、私服のものが客に成りすましてホテルのロビーや玄関などに待機してカタクラが現れるのを監視していたのである。しかし伊達はそこまで当局が伸ばしてきているのをまだ知らない。
ロシアになってからサハリンが急に発展してきたとはいえ、空港への道の両側には空き地や原野が目立った。本当の開発が行われるのはこれからなのだろう。伊達は携帯電話を取り出すと電源を入れ、19650331と番号をいれ、赤いボタンを押した。携帯電話は一瞬画面に光を点滅させたがそれも直ぐに消えた。電話をするなら緑のボタンを押すはずなのだが…
「ここは電波が届かないところだぜ」
と、運転手が携帯電話に気づいて言った。
「そうらしいな。うんともすんとも言わねぇや」
伊達はわざとぶっきらぼうに答えると携帯電話をポケットにしまった。そして腕時計を見つめた。
「話は決まりだ。急ぐんだろ、すぐ向こうの二番目の車に乗れ」
金色の鷲の図柄が背中一杯に広がった黒の革ジャンを着た運転手は伊達の手から百ドル札を奪い取るとそう言って走り出した。
「パシリ(行こうぜ!)」
伊達も走ると、そのタクシーの後部座席に飛び込んだ。車がまるでジャンプするかのように急発進をした。
ホルムスクからユージノサハリンスクに向かう道は暫くして峠にさしかかる。この峠は第二次世界大戦での敗戦時に、日本人住民を守って撤退をしていた日本軍にソ連軍が一方的に攻撃をし、やむなく日本軍が応戦せざるを得なかった悲しい歴史の舞台となったところである。
「スカリェー、スカリェー、ブィストリェー(速く、速く、もっと速く)」
伊達が運転手に急げと命ずる。
「ハラショ、ニェート プロバレーマ(良し、任せとけ)」
と、運転手は車の性能限界までアクセルを踏み、ハンドルを操作し、ブレーキを踏んだ。砂塵を巻き上げ、カーブのたびに軋みながら、車は峠を越え、急カーブを右に左にと曲がり、ユージノサハリンスクへ向け、飛ばしに飛ばした。
「もうすぐユージノだぜ。ユージノの何処へ行けばいいんだ」
運転手が聞いてきた。
「そうだな、エアロポルト(空港)へ頼む」
本当はサハリンホテルのナターシャに預けておいた荷物を取りに行きたかったが、ひょっとしてホテルに当局のものが既に来ているかもしれない。荷物は捨てて空港に急ぐほうが得策と伊達は判断したのだった。
伊達の判断は正しかった。その時、サハリンホテルには内務警察の数人が到着、フロントで伊達の荷物を受け取り、私服のものが客に成りすましてホテルのロビーや玄関などに待機してカタクラが現れるのを監視していたのである。しかし伊達はそこまで当局が伸ばしてきているのをまだ知らない。
ロシアになってからサハリンが急に発展してきたとはいえ、空港への道の両側には空き地や原野が目立った。本当の開発が行われるのはこれからなのだろう。伊達は携帯電話を取り出すと電源を入れ、19650331と番号をいれ、赤いボタンを押した。携帯電話は一瞬画面に光を点滅させたがそれも直ぐに消えた。電話をするなら緑のボタンを押すはずなのだが…
「ここは電波が届かないところだぜ」
と、運転手が携帯電話に気づいて言った。
「そうらしいな。うんともすんとも言わねぇや」
伊達はわざとぶっきらぼうに答えると携帯電話をポケットにしまった。そして腕時計を見つめた。
2009年12月5日土曜日
オホーツクの鯱
ちょっと落ち着いた伊達は今買ってきた新聞を見た。一面には大統領の胸を張った写真が大きく掲載されていた。ページを繰った。そこにはホルムスクの埠頭完成式典の記事が載っていた。都合よく式典会場や、ホルムスク港の見取り図が掲載されている。
「良し」
とつぶやいた伊達の目が見取り図の下の小さな見出しを捉えた。
「コズロフスキー州知事の式典参加は中止」
と書いてある。急に重要な仕事が入ったので副知事が代わりに出席するとも書いてある。
伊達は急に立ち上がった。そして再びキオスクに戻ると、パンとカルバサ(ロシアソーセージ)を買い求めバックパックに詰め込んだ。
伊達の目は前後左右を絶え間なく監視している。情報が漏れたのだ。誰かが州知事を狙っていることが知事側に察知されたのに違いなかった。さもなくば、出たがりの、演説好きのロシア人がそのチャンスを捨てるわけがない。狙っているのが伊達と割り出されているかどうかは分からない。しかし、この時期に海外から入った外国人をしらみつぶしに調べていけばいずれ「ショーン カタクラ」と言う名前が疑わしき人物の一人として挙がってくるであろう。そうすれば、当局が絡んでいたと推定されるハバロフスクのイリーナやイーゴリから伊達がホルムスクに向かっていたことが分かるはずだ。その特定がされないうちに急いで脱出しなければならない。それも自然に、目立たずに。
サハリンから外に出る、特に直接日本に出る方法はユージノサハリンスクから飛行機で稚内に飛ぶと言うのと、コルサコフから定期船で稚内に渡るという二つしかない。それ以外の方法はさらにロシア内のほかのところを経由しての脱出であり、危険すぎる道だった。しかし日本への二つのルートも何時遮断されるかもしれない。残された時間は短いのだ。
伊達はロシアに入ってまだ何もしていない。だが、KGBの流れを汲む国家保安局は証拠などが何もなくても外国人を拘束するだろう。行方不明になったと説明するだけなのだ。無実であれば罪を作り、それが駄目なら事故を装って殺害する、そんなことは彼らの日常だった。
伊達は決断した。直ちにタクシー乗り場に向かった。
「ユージノサハリンスクまで走ってくれるタクシーはいるかな」
伊達は、タクシー運転手のたまり場でこう声をかけた。
「何、ユージノまで?高いぞ、金は払えるのか?」
運転手の一人、30過ぎのがっちりした男が大声で答えた。
「日本の母親が急病だと知らせが来た。列車はまだ当分発車しないし、動いたとしても遅いだろう。タクシーが一番速いんじゃないのか。金はドルしかないがそれでも良いか」
「ドルしかない?そういうお客は大歓迎だぜ。前金で百ドル、払えるか?」
「行ってくれるなら払う。今払う」
「良し」
とつぶやいた伊達の目が見取り図の下の小さな見出しを捉えた。
「コズロフスキー州知事の式典参加は中止」
と書いてある。急に重要な仕事が入ったので副知事が代わりに出席するとも書いてある。
伊達は急に立ち上がった。そして再びキオスクに戻ると、パンとカルバサ(ロシアソーセージ)を買い求めバックパックに詰め込んだ。
伊達の目は前後左右を絶え間なく監視している。情報が漏れたのだ。誰かが州知事を狙っていることが知事側に察知されたのに違いなかった。さもなくば、出たがりの、演説好きのロシア人がそのチャンスを捨てるわけがない。狙っているのが伊達と割り出されているかどうかは分からない。しかし、この時期に海外から入った外国人をしらみつぶしに調べていけばいずれ「ショーン カタクラ」と言う名前が疑わしき人物の一人として挙がってくるであろう。そうすれば、当局が絡んでいたと推定されるハバロフスクのイリーナやイーゴリから伊達がホルムスクに向かっていたことが分かるはずだ。その特定がされないうちに急いで脱出しなければならない。それも自然に、目立たずに。
サハリンから外に出る、特に直接日本に出る方法はユージノサハリンスクから飛行機で稚内に飛ぶと言うのと、コルサコフから定期船で稚内に渡るという二つしかない。それ以外の方法はさらにロシア内のほかのところを経由しての脱出であり、危険すぎる道だった。しかし日本への二つのルートも何時遮断されるかもしれない。残された時間は短いのだ。
伊達はロシアに入ってまだ何もしていない。だが、KGBの流れを汲む国家保安局は証拠などが何もなくても外国人を拘束するだろう。行方不明になったと説明するだけなのだ。無実であれば罪を作り、それが駄目なら事故を装って殺害する、そんなことは彼らの日常だった。
伊達は決断した。直ちにタクシー乗り場に向かった。
「ユージノサハリンスクまで走ってくれるタクシーはいるかな」
伊達は、タクシー運転手のたまり場でこう声をかけた。
「何、ユージノまで?高いぞ、金は払えるのか?」
運転手の一人、30過ぎのがっちりした男が大声で答えた。
「日本の母親が急病だと知らせが来た。列車はまだ当分発車しないし、動いたとしても遅いだろう。タクシーが一番速いんじゃないのか。金はドルしかないがそれでも良いか」
「ドルしかない?そういうお客は大歓迎だぜ。前金で百ドル、払えるか?」
「行ってくれるなら払う。今払う」
2009年12月4日金曜日
オホーツクの鯱
男は先に立って鉄道の軌道を歩き始めた。危なくはないかと思ったが、考えて見ればこの線を走る列車など数えるほどだし、それに単線だからすぐになど通る列車はないのだ。
十分ほど歩いただろうか、ようやく鉄道を道路が横切っているところに出た。
「この道を海岸のほうに歩いていけばメインの道路に出る。そしたらすぐ右側にバス停があるからそこで待っていれば良い。7時ごろにはバスが来ると思う」
「スパシボ。であんたは何処へ行くんだ」
「俺か、俺はここを反対に山のほうに向かう。そこに石油開発関係の資材倉庫がある。そこで働いているんだ」
男と別れた伊達はバス停に向かった。直接ホルムスクに行くのはちょっと目立つかと思って一駅先のカメンスカヤまで来たのだが余りの田舎に不便を感じていた。明日の午後にはホルムスク港の新埠頭の完成式が行われる。それに出席して祝辞を述べるのが州知事なのだ。式場の下見をして、ユージノサハリンスクで注文して送らせた攻撃用および逃走用の装備類のチェックをしなければならない。伊達は東京で入手したホルムスク埠頭関係の位置関係を頭に呼び戻していた。こういう仕事柄書いたものは一切持たないのである。すべては頭の中にしまう、それが鉄則だった。
バスがでこぼこ道をバウンドしながらのろのろとやって来た。バス停で手を上げていた伊達の前にバスは停まった。何とボンネットバスだった。中には紺の制服を着た若いロシア娘の車掌がいてでかいガマグチのようなバッグを首から提げていた。乗客は十数人、防寒着に身を包んだ人が殆どで、しかも誰も一言もしゃべらない。ウーンウンウンと唸るエンジンの音と、バス停の名前を告げる車掌の声だけしか聞こえない。停留所に停まるたびに乗客が増える。ホルムスクに通勤する人たちが利用しているのだろう。
伊達はホルムスクのバザール前でバスを降りた。安っぽい木製の長いテーブルが長四角の形に並んでいる。粗末な屋根がそのテーブルをようやく覆うように作られている。そしてテーブルの上には野菜、漬物、豚の頭など種々雑多のものが並べられている。冬の始まりとあって野菜は生鮮品が少ない。多いのはジャガイモと玉ねぎだった。それでもソ連時代から自由経済市場を形成していたこのバザールには今日も人出が多かった。
バザールの脇にはコンクリートの建物があり、細かく仕切られた部屋でこれまた色々なものが売られていた。伊達はその中の一軒に入ると、ピロシキを二個買った。粗末な灰色がかった再生紙にくるまれたピロシキは揚げたてだけが値打ちとばかり熱かった。別の店で今度はレモネードのビンを買った。さらに向かいのキオスクで「ノーボスチサハリン(サハリンニュース)」と言う名前のガゼータ(新聞)を買い込んで脇に挟んだ。近くの安っぽいビルの前に薄汚れたベンチがあったので伊達はそこに腰掛けた。
「さて」
と、伊達は新聞を横に置き、先ずはピロシキを口にした。味が広がる前に油が口の中一杯に広がった。ピロシキを割ってみた。僅かのミンチ肉にしおれたようなキャベツの刻んだのが絡み合っていた。決して美味くはなかったが、かと言ってそんなにまずいわけでもなかった。レモネードのほうは昔と変わらぬ砂糖水のような味だった。
十分ほど歩いただろうか、ようやく鉄道を道路が横切っているところに出た。
「この道を海岸のほうに歩いていけばメインの道路に出る。そしたらすぐ右側にバス停があるからそこで待っていれば良い。7時ごろにはバスが来ると思う」
「スパシボ。であんたは何処へ行くんだ」
「俺か、俺はここを反対に山のほうに向かう。そこに石油開発関係の資材倉庫がある。そこで働いているんだ」
男と別れた伊達はバス停に向かった。直接ホルムスクに行くのはちょっと目立つかと思って一駅先のカメンスカヤまで来たのだが余りの田舎に不便を感じていた。明日の午後にはホルムスク港の新埠頭の完成式が行われる。それに出席して祝辞を述べるのが州知事なのだ。式場の下見をして、ユージノサハリンスクで注文して送らせた攻撃用および逃走用の装備類のチェックをしなければならない。伊達は東京で入手したホルムスク埠頭関係の位置関係を頭に呼び戻していた。こういう仕事柄書いたものは一切持たないのである。すべては頭の中にしまう、それが鉄則だった。
バスがでこぼこ道をバウンドしながらのろのろとやって来た。バス停で手を上げていた伊達の前にバスは停まった。何とボンネットバスだった。中には紺の制服を着た若いロシア娘の車掌がいてでかいガマグチのようなバッグを首から提げていた。乗客は十数人、防寒着に身を包んだ人が殆どで、しかも誰も一言もしゃべらない。ウーンウンウンと唸るエンジンの音と、バス停の名前を告げる車掌の声だけしか聞こえない。停留所に停まるたびに乗客が増える。ホルムスクに通勤する人たちが利用しているのだろう。
伊達はホルムスクのバザール前でバスを降りた。安っぽい木製の長いテーブルが長四角の形に並んでいる。粗末な屋根がそのテーブルをようやく覆うように作られている。そしてテーブルの上には野菜、漬物、豚の頭など種々雑多のものが並べられている。冬の始まりとあって野菜は生鮮品が少ない。多いのはジャガイモと玉ねぎだった。それでもソ連時代から自由経済市場を形成していたこのバザールには今日も人出が多かった。
バザールの脇にはコンクリートの建物があり、細かく仕切られた部屋でこれまた色々なものが売られていた。伊達はその中の一軒に入ると、ピロシキを二個買った。粗末な灰色がかった再生紙にくるまれたピロシキは揚げたてだけが値打ちとばかり熱かった。別の店で今度はレモネードのビンを買った。さらに向かいのキオスクで「ノーボスチサハリン(サハリンニュース)」と言う名前のガゼータ(新聞)を買い込んで脇に挟んだ。近くの安っぽいビルの前に薄汚れたベンチがあったので伊達はそこに腰掛けた。
「さて」
と、伊達は新聞を横に置き、先ずはピロシキを口にした。味が広がる前に油が口の中一杯に広がった。ピロシキを割ってみた。僅かのミンチ肉にしおれたようなキャベツの刻んだのが絡み合っていた。決して美味くはなかったが、かと言ってそんなにまずいわけでもなかった。レモネードのほうは昔と変わらぬ砂糖水のような味だった。
2009年12月3日木曜日
オホーツクの鯱
コンパートメントに入った伊達は右のベッドの毛布をめくって袋状のシーツを敷きこんだ。そして服をあらかた脱ぐとそのシーツの袋にもぐりこんだ。ベッドが狭い。いくら夜行寝台車のベッドといってもこれほど狭いとは驚きだった。真っ直ぐ上を向いて寝るとどうしても右腕はベッドの外になる。やむなく横向きに体勢を変えた。コンパートメントの中には二段ベッドが二つ、つまり四人が寝ることになる。ここはロシア、男女の別などない。
向かいの上のベッドには若い女性が上がった。驚いたことに服を着たままシーツの袋に入っていく。が、その女性、どうやって服を脱いでいるのか分からないが、次々に着ていた服を脱いで頭の上に積み上げて行った。シーツの中はどんな姿になっているのか、伊達は想像してみたが黙って寝ていた。今は騒動を起こしてはいけない身なのである。
やがてもう一人の大きな体の乗客が入ってきた。伊達のすぐ上のベッドに寝るようだ。伊達は上を見て驚いた。何と上の客はベッドから体の一部をはみ出したまま寝ているではないか。それも10センチはみ出たなんてものではなく20センチははみ出ていたのではないだろうか。こういう環境の下で長年暮すと人間は嫌でも適応していくものらしい。
やがて汽車はゆっくり動き出した。伊達は腕時計の目覚ましを6時にセットして眠りについた。といってもぐっすり眠れるような環境ではなかったのだが。
アラームが鳴り出す前に目が覚めた。伊達は服を着てバックパックを担ぐとコンパートメントを出て廊下を後部に移動した。やがて列車はキキー、キキーと言うブレーキの音を立てながら速度を落とした。案外時間は正確であったが列車はなかなか止まらない。窓の外にも駅舎が見えない。が、その時、
「ニェズナーエチェ(知らないのか)」
と言う声がして、後ろに来ていた男が伊達を押しのけてドアを開けるなり、はしごに足をかけるとすぐに飛び降りた。
伊達は瞬時に理解した。この列車は駅には止まらないのだ。ここで言う停車とは一旦速度を落として飛び降りられるようにすることなのだと。そう悟った伊達はすぐに、前の男に続いて飛び降りた。列車は既に加速し始めていた。
プラットフォームはユージノサハリンスク駅よりもっと低く、レールと同じ高さだったし、駅舎など全く存在しなかった。駅だと言われなければここが駅だとは分からない、周囲はただの雑草に囲まれている。
さっき押しのけた男が伊達に言った。
「ここの者じゃなさそうだが何処へ行くんだ」
「海岸に出て夜明けの景色を写真に撮りながらホルムスク(真岡)まで行こうと思ってるんだが」
「止めとけ、止めとけ。この寒い時刻に海岸なんていったら凍えちまうぜ。それにここらには野犬が多いから、噛みつかれるかもしれない。海岸の道路をバスが走っているからそれでホルムスクへ早めに行って何か暖かい物でも食ったほうがいい」
「そうか。野犬がいるんじゃ止めといたほうがいいみたいだな」
「バス停までは俺が連れて行ってやるよ」
「そいつぁすまない。じゃ、そうしてもらおうか」
向かいの上のベッドには若い女性が上がった。驚いたことに服を着たままシーツの袋に入っていく。が、その女性、どうやって服を脱いでいるのか分からないが、次々に着ていた服を脱いで頭の上に積み上げて行った。シーツの中はどんな姿になっているのか、伊達は想像してみたが黙って寝ていた。今は騒動を起こしてはいけない身なのである。
やがてもう一人の大きな体の乗客が入ってきた。伊達のすぐ上のベッドに寝るようだ。伊達は上を見て驚いた。何と上の客はベッドから体の一部をはみ出したまま寝ているではないか。それも10センチはみ出たなんてものではなく20センチははみ出ていたのではないだろうか。こういう環境の下で長年暮すと人間は嫌でも適応していくものらしい。
やがて汽車はゆっくり動き出した。伊達は腕時計の目覚ましを6時にセットして眠りについた。といってもぐっすり眠れるような環境ではなかったのだが。
アラームが鳴り出す前に目が覚めた。伊達は服を着てバックパックを担ぐとコンパートメントを出て廊下を後部に移動した。やがて列車はキキー、キキーと言うブレーキの音を立てながら速度を落とした。案外時間は正確であったが列車はなかなか止まらない。窓の外にも駅舎が見えない。が、その時、
「ニェズナーエチェ(知らないのか)」
と言う声がして、後ろに来ていた男が伊達を押しのけてドアを開けるなり、はしごに足をかけるとすぐに飛び降りた。
伊達は瞬時に理解した。この列車は駅には止まらないのだ。ここで言う停車とは一旦速度を落として飛び降りられるようにすることなのだと。そう悟った伊達はすぐに、前の男に続いて飛び降りた。列車は既に加速し始めていた。
プラットフォームはユージノサハリンスク駅よりもっと低く、レールと同じ高さだったし、駅舎など全く存在しなかった。駅だと言われなければここが駅だとは分からない、周囲はただの雑草に囲まれている。
さっき押しのけた男が伊達に言った。
「ここの者じゃなさそうだが何処へ行くんだ」
「海岸に出て夜明けの景色を写真に撮りながらホルムスク(真岡)まで行こうと思ってるんだが」
「止めとけ、止めとけ。この寒い時刻に海岸なんていったら凍えちまうぜ。それにここらには野犬が多いから、噛みつかれるかもしれない。海岸の道路をバスが走っているからそれでホルムスクへ早めに行って何か暖かい物でも食ったほうがいい」
「そうか。野犬がいるんじゃ止めといたほうがいいみたいだな」
「バス停までは俺が連れて行ってやるよ」
「そいつぁすまない。じゃ、そうしてもらおうか」
2009年12月2日水曜日
オホーツクの鯱
「ホルムスクは海岸だから風が強くて寒いよ。そんなところに行かないでここに居ればいいのに。暖めてあげるから」
「それは帰ってきたときの楽しみにするかな。二日ほどで戻ってくるから荷物を預かっておいてくれないか」
「いいわよ。カウンターの上においといて」
伊達はホテルを後にした。深夜ともなると冷え込みが厳しく、思わずコートの襟を寄せ合わせる。ホテルの付属レストランの前には警察の車が止まっている。酔っ払い狩りだ。酒は飲んでも良いが外では酔っ払ってはいけないと言うのがルールだ。警察は点数稼ぎのためにレストランの前で酔っ払いが出てくるのを待ち受けているのだ。
ロシアになって、サハリンにも外国資本が進出してきた。その外国企業関係で働くものは高給取りになった。しかし一般の人々の暮らしは決してそんなによくはなっていない。たまにレストランで食事をし、ウォトカを飲んで騒ぐのが楽しみなのである。
伊達がちょうどレストランの前を通りかかったとき、中から出てきた客の一人がよろめいて伊達に当たりそうになった。伊達は両腕でその男を押しとめて脇をすり抜けた。十数メートル歩いたところで背後で言い争う声が聞こえた。声が向かいのビルに反射して冷たい空間に響いた。振り向くと警官にさっきの男が捕まるところだった。
公園を突っ切るとユージノサハリンスク駅がある。構内に入るのはフリーパスだ。駅舎を抜けると暗闇に灯りが点いた列車が止まっている。一番後ろの車両の最後尾に車掌室があり、そこからは明るい光が漏れ出していた。プラットフォームは鉄道のレールよりほんの少し高いだけ、日本のものとは全くイメージが異なる。最後尾の車両についた鉄製のはしごを上るとそこは車掌室の前だった。人影を見つけた、丸々と太った車掌の伯母さんが部屋から出てきて、
「切符は?」
と野太い声で聞いた。
伊達が切符を手渡すと、
「ああ、カメンスカヤまでだね。ターク、カメンスカヤ、カメンスカヤ…」
車掌は時刻表を調べている。そして老眼鏡をおでこに押し上げながら上目遣いに伊達を見て、
「カメンスカヤには午前6時20分に到着の予定だよ。いいかい、予定だよ」
「ポーニャル(分かった)」
「4番のコンパルトメントの下のベッドがあんたのだからね。今、枕とシーツをあげるから自分で持っていきな」
車掌は隣の寝具倉庫に入ると入り口に立っている伊達にシーツと枕を投げてよこした。
「スパシーボ(有難う)」
「それは帰ってきたときの楽しみにするかな。二日ほどで戻ってくるから荷物を預かっておいてくれないか」
「いいわよ。カウンターの上においといて」
伊達はホテルを後にした。深夜ともなると冷え込みが厳しく、思わずコートの襟を寄せ合わせる。ホテルの付属レストランの前には警察の車が止まっている。酔っ払い狩りだ。酒は飲んでも良いが外では酔っ払ってはいけないと言うのがルールだ。警察は点数稼ぎのためにレストランの前で酔っ払いが出てくるのを待ち受けているのだ。
ロシアになって、サハリンにも外国資本が進出してきた。その外国企業関係で働くものは高給取りになった。しかし一般の人々の暮らしは決してそんなによくはなっていない。たまにレストランで食事をし、ウォトカを飲んで騒ぐのが楽しみなのである。
伊達がちょうどレストランの前を通りかかったとき、中から出てきた客の一人がよろめいて伊達に当たりそうになった。伊達は両腕でその男を押しとめて脇をすり抜けた。十数メートル歩いたところで背後で言い争う声が聞こえた。声が向かいのビルに反射して冷たい空間に響いた。振り向くと警官にさっきの男が捕まるところだった。
公園を突っ切るとユージノサハリンスク駅がある。構内に入るのはフリーパスだ。駅舎を抜けると暗闇に灯りが点いた列車が止まっている。一番後ろの車両の最後尾に車掌室があり、そこからは明るい光が漏れ出していた。プラットフォームは鉄道のレールよりほんの少し高いだけ、日本のものとは全くイメージが異なる。最後尾の車両についた鉄製のはしごを上るとそこは車掌室の前だった。人影を見つけた、丸々と太った車掌の伯母さんが部屋から出てきて、
「切符は?」
と野太い声で聞いた。
伊達が切符を手渡すと、
「ああ、カメンスカヤまでだね。ターク、カメンスカヤ、カメンスカヤ…」
車掌は時刻表を調べている。そして老眼鏡をおでこに押し上げながら上目遣いに伊達を見て、
「カメンスカヤには午前6時20分に到着の予定だよ。いいかい、予定だよ」
「ポーニャル(分かった)」
「4番のコンパルトメントの下のベッドがあんたのだからね。今、枕とシーツをあげるから自分で持っていきな」
車掌は隣の寝具倉庫に入ると入り口に立っている伊達にシーツと枕を投げてよこした。
「スパシーボ(有難う)」
2009年12月1日火曜日
オホーツクの鯱
乗客がすべて乗り込んでから暫くしてパイロットたちが乗り込んできた。腰に拳銃を携帯している。普通の国の航空会社ではパイロットが先に飛行機に乗り出発準備をするのだがロシアではいまだに乗せてやる、と言う気風が強く残っている。日本でもまだ消えない官尊民卑のようなものだろう。
アントノフ24はようやくエンジンが動き出し、プロペラが回り始めた。ハバロフスクを飛び立つと暫くはアムール川沿いに飛行する。眼下にはアムールの氾濫原が広がり、靴紐を編んだような形に入り組んだ小河川系が見られる。そして機は東に進路をとり、シホテアリン山脈を越え、海上に出る。タタール(間宮)海峡だ。海の上で機は南東に進路をとり、サハリンの陸上に入る。あとは南下してユージノサハリンスクに向かうだけだ。山々の先端だけが雲の上に出ているだけで、雲が厚く、広く発達していて地上の様子が見えない。
ユージノサハリンスクが近づいたと見え、機は高度を下げて雲の下に出た。窓に水の筋が幾つもついては後ろに移動していく。下界は雨模様のようだ。雲の下だから地上の様子が見える。ユウジノサハリンスクの町が見えたがアントノフ24は通り過ぎてなお南下しコルサコフを越えて海上、つまり宗谷海峡に出て大きくUターンし、逆方向からユージノサハリンスク空港に進入した。
伊達は古くからある、ガスティーニツァ(ホテル)サハリンに入った。ソ連崩壊後サハリンの石油天然ガスの開発生産のために外国石油会社関係の人間が多くサハリンに入ってきたのでちょっと離れたところに日本の商社が資金を出した立派なホテルが出来ていたが。伊達は、今はロシア人しか泊まることがなくなった古いホテルを利用した。外人が多いホテルほど当局の監視が厳しいからだ。そういうホテルに出入りする売春目的の若い娘たちは寝た相手の客について当局に報告しているのだ。そうとも知らずに、毎年のように視察旅行と称する「買春ツアー」が日本からやってきていた。
伊達は部屋に荷物を置くとすぐにホテルを出た。目指すはクズネツォフ通り67番地なのだが、先にユージノサハリンスク駅に立ち寄った。次の日の夜に乗る夜行列車の切符を買うためだった。そして、駅前広場から博物館、そして山の公園などの写真を撮りながら歩き回り、偶然見つけたかのようにクズネツォフ通りの本屋に入った。
翌日の夜11時半に伊達はホテルのカウンターに荷物を持って現れた。
「ウィジャイエチェ(出かけるの)、ガスパジーン カタクラ?」
と、金髪のナターシャがカウンター内の書類を片付けながら聞いた。
伊達は「ショーン カタクラ」と言う名前で出かけてきている。勿論パスポートもその名前だ。つまり「仕事用」の名前である。
「ダー(そうなんだ)、これから夜行列車でホルムスクに行くんだ。良い写真が撮れるといいんだけどね。明け方は寒いだろうね」
アントノフ24はようやくエンジンが動き出し、プロペラが回り始めた。ハバロフスクを飛び立つと暫くはアムール川沿いに飛行する。眼下にはアムールの氾濫原が広がり、靴紐を編んだような形に入り組んだ小河川系が見られる。そして機は東に進路をとり、シホテアリン山脈を越え、海上に出る。タタール(間宮)海峡だ。海の上で機は南東に進路をとり、サハリンの陸上に入る。あとは南下してユージノサハリンスクに向かうだけだ。山々の先端だけが雲の上に出ているだけで、雲が厚く、広く発達していて地上の様子が見えない。
ユージノサハリンスクが近づいたと見え、機は高度を下げて雲の下に出た。窓に水の筋が幾つもついては後ろに移動していく。下界は雨模様のようだ。雲の下だから地上の様子が見える。ユウジノサハリンスクの町が見えたがアントノフ24は通り過ぎてなお南下しコルサコフを越えて海上、つまり宗谷海峡に出て大きくUターンし、逆方向からユージノサハリンスク空港に進入した。
伊達は古くからある、ガスティーニツァ(ホテル)サハリンに入った。ソ連崩壊後サハリンの石油天然ガスの開発生産のために外国石油会社関係の人間が多くサハリンに入ってきたのでちょっと離れたところに日本の商社が資金を出した立派なホテルが出来ていたが。伊達は、今はロシア人しか泊まることがなくなった古いホテルを利用した。外人が多いホテルほど当局の監視が厳しいからだ。そういうホテルに出入りする売春目的の若い娘たちは寝た相手の客について当局に報告しているのだ。そうとも知らずに、毎年のように視察旅行と称する「買春ツアー」が日本からやってきていた。
伊達は部屋に荷物を置くとすぐにホテルを出た。目指すはクズネツォフ通り67番地なのだが、先にユージノサハリンスク駅に立ち寄った。次の日の夜に乗る夜行列車の切符を買うためだった。そして、駅前広場から博物館、そして山の公園などの写真を撮りながら歩き回り、偶然見つけたかのようにクズネツォフ通りの本屋に入った。
翌日の夜11時半に伊達はホテルのカウンターに荷物を持って現れた。
「ウィジャイエチェ(出かけるの)、ガスパジーン カタクラ?」
と、金髪のナターシャがカウンター内の書類を片付けながら聞いた。
伊達は「ショーン カタクラ」と言う名前で出かけてきている。勿論パスポートもその名前だ。つまり「仕事用」の名前である。
「ダー(そうなんだ)、これから夜行列車でホルムスクに行くんだ。良い写真が撮れるといいんだけどね。明け方は寒いだろうね」
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